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3月, 2019の投稿を表示しています

山本一郎さんの力をもってしても素人ブログはほとんど読まれないことを実感した話

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オレがオレにオンデマンド、オレがオレにオンデマンドって呟きながらブログを書いている錆田鉄男です。 ブログを書き始めてひと月経った。エントリー数はこれを入れて28本となり、まあまあのペースを保っている。とは言っても当初の毎日更新していた勢いもここ二週間は衰えを見せ、中二日空く日も出てきた。二人でやってなかったら、エントリー数も更新頻度も半分であっただろうし、最悪飽きて三日坊主で終わっていた可能性も高い。早くもブログを複数人で更新することのメリットを 実感 している。 普段、一日平均閲覧数10人前後である当ブログであるが、二度ほど、この数値が跳ね上がった日があった。 跳ね上がった週のブログ統計情報 きっかけはアニメ作家の山本寛さんが破産したニュースをツイートしていた山本一郎さんのリプライ欄で、僕が他のユーザーと騒いでいたことにある。そのやり取りを面白く思ってくれたのだろう山本一郎さんが、僕のツイッターのプロフィール欄にあったブログに目を留めてくれたようで、感想をツイートしてくださった。 一応、ツイッターのモーメント機能を使ってその一連の流れを 素敵な思い出 として記録しておいたのだが、山本一郎さんのアカウントは凍結されてしまったため、山本さんの発言が消えてしまっている。momentの語が表すとおり「今」しか語りえないツイッターの歯がゆさを 実感 した。ツイッターでみんながあほみたいにスクリーンショットを掲示している意味もよく分かった。ツイッターの記録の作法は「スクリーンショット」なのだ。大切な思い出や人の悪事の証拠はスクショしないといけない。 話を戻そう。山本さんのツイートで 言及されたエントリー の閲覧数が一気に800近くに達した。これは一日のアクセス数が20未満(しかも半分は自分)という日常からしたら驚くべき体験だ。これがアルファツイッタラーの威力か、と 実感 した。 山本さんは日を空けて、 別のエントリー についてツイートして下さったようだったが、そのツイートを僕が目にする前に、ツイッターのアカウントが凍結されてしまった。当時、「パンプス靴擦れ論争」みたいのがツイッター上で起こっていてそれが原因と推察する。 パンプスだかハイヒールを履いて靴擦れをして血が出ている女性の写真がバズっていた。それを見て義憤に駆られた人たちがおり、「...

平成化石作り

あとひと月余りで平成が終わる。ぼく自身は昭和産まれてだが昭和の記憶は、ほとんどない。記憶の99%が平成の時代だ。鉄男くんが言ってた未来に残る化石としてのブログなら平成の最後に平成を生きた思い出を記していこうと思う。 ここでの思い出とは正確な過去ではない。あくまで"思い出"としての記録だ。例えば、ぼくはバブルの時代について語るのが好きだがその時代をベビーカーの中で経験した。だから思い出としてのバブルはない。ぼくが語るバブルはデータや資料でしかない。例えそれが正確であったとしても"思い出"のなかにそれはない。 この平成でもデータはあるし、平成が終わった後に平成を総括して資料価値の高い研究がなされることだろう。それは専門家に任せるとする。 ぼくのやろうとしてるのは不正確でバイアスのかかった"思い出"なのだ。 これから1ヶ月の間、平成が終わるまで平成の思い出を語りながら平成の時代に自分なりの別れを告げたいと思う。 最初に書きたいのは平成のはじまりについてだ これについてはあまりに幼いころの思い出だから不正確なところも多いだろう。 これは平成がはじまる少し前、ぼんやりと思い出すのは、朝、家に家族全員がいたことに驚いたことだ。どうやら仕事も学校も休みらしいということ。 生家のマンションから街を眺めても誰も歩いていなかった。もちろんぼくの家族もみんなお茶の間でテレビの画面を凝視していた。 幼いぼくには何が起こっていたのかあまり良く分かっていなかった。しかし天皇が亡くなったことだけはなんとなくわかった。 「平成」の文字を掲げる小渕元首相なんかは記憶にない。ぼくはきっと興味が全くなかったのだろう。 平成元年と言えば思い出すのが近所に住んでいた幼馴染の女の子に妹が産まれたことだ。 母親に連れられて電車で何駅か行ったところの病気に赤ちゃんを見にいったことがあった。 産まれたばかりで小さいベッドに寝ている幼馴染の妹を眺めながら彼女とは生きる時代が違うのだということを考えていた。 老人と言えども産まれた年が「明治」か「大正」かではかなり印象が違う(当時昭和産まれは全員まだ老人という歳でもなかった)。ぼくは「昭和」産まれであるがゆえに老人になったとき「平成」産まれの彼女らより老人...

ぶらぶら

気がつけば1週間ブログ書いてなかった日陰です。ぼくの読書体験は小学生の頃、授業サボって読んでた「ズッコケ3人組」からです。 ぼくの1番の趣味は散歩だ。毎日5、6kmは歩いていると思う。たぶん前世は犬だろう。小学生の頃、ぼくは隣町のスイミングスクールに通っていた。隣町に着くまで電車の窓から外を眺めていたら最寄駅から隣の駅までは一本道だった。これなら歩いて親から貰った電車賃を浮かそうと思ったのがきっかけだった。 早めに家を出て最寄駅から線路沿いをひたすら歩いた。電車の窓から見える風景と一致してはいたがそれでも本当に着くか、小学生のぼくには不安だった。 だからこそ隣町の駅が見えたときの感動はいまでも鮮明に覚えている。往復せいぜい300円くらい。でも小学生にとっては嬉しい金額だった。それから週2回のスイミングスクールの日は毎日歩いた。駄菓子屋で豪遊するには十分な収入だ。 スイミングスクールと家の往復になれると別の場所に歩きで行ってみたくなった。ぼくの家から10km程度行ったところに盛り場のある街があった。週末によく友人たちと遊んでいた場所だ。そこに歩いて行くことにした。 スイミングスクールのある隣町とは違ってルートを電車から確認することはしない。Googleマップなんてない時代だ。地図だけが頼りだった。歩いても歩いても見慣れない景色が続く。しかもトンネルがやけに多かった。トンネルのなかで車の音は反響して爆音になってしまう。小学生のぼくはかなり怖かった。 それでも何度かひとに道を尋ねながらも進んだ。他人の家が殺風景に並ぶ景色に孤独を感じた。すれ違う他人の顔が冷たく感じた。最後のトンネルを抜けて見慣れた繁華街が見えてきたときは安堵感からか、いつもよりも華やかに見えた。 その繁華街で具体的に何したのかあまり覚えていない。たぶんゲーセン行ったりとかそんな感じだろう。でも凄く気持ちが良かったことだけは覚えている。 それから歩ける範囲で知らない街に行くのが趣味になった。知らない街へ行くときは見慣れた風景が現れる安堵感はないけどその街のデパートや商店街を歩くだけで新鮮な気持ちになった。 幸いにも歩ける距離に海も山も盛り場も廃墟もあった。甲子園常連校やバレーボールの名門校もあった。史跡も遺跡もあった。散歩するたびに新しい発見があった。 知らない街で歩...

僕は深沢美潮先生に感謝する

どうも、頭の中で 音読 して本を 読む 錆田鉄男です。 遅読 です。 「喋る」ためには「聞く」ことが必須で、「書く」ためには「 読む 」ことが必須である。「書く」ことについてはこのブロクで少し触れたから今度は「 読む 」ことについて書こうと思う。 自分は 読書 家を自称できるほど本を 読ん でいないが、本を全く 読ん でいない人よりは多く 読ん で来た。二十代前半くらいまではそれなりに 読書 をしてきたと思う。大学を卒業してからは、労働ですっかりくたびれて活字を追う習慣を失い、生来の 遅読 家であることも手伝って本を 読む 機会が激減した。現在、自分の有する語彙力の95%は学生時代以前に獲得したものだと思う。 読書 は現代人の義務だ。印刷文化が極めて発達したこの日本で一切 読書 をせずに死んでいくのは難しい。本人が 読書 を望まずとも親が自分の教育テーマに適った本を子に買い与えたり、学校が 読書 を奨励したりするからだ。 僕は五歳までおねしょをしていた。「寝る前に牛乳を飲んだ男の子がおねしょする絵本」みたいのを両親に買い与えられ何かの教訓を得させようとしていたような記憶がある。これが最初の 読書 だったかもしれない。またキリスト教系の幼稚園だったので「イエスさま」の絵本を沢山持っていた気がするがこれは見た記憶が残っていない。これは 読書 体験とは言えない。 自分の意思で初めて 読ん だと思える本、最初の 読書 体験はいつだったか思い返してみると、幼稚園の時だった。子供向け教育番組の 「まんがはじめて物語」 を幼児向けにリライトした絵本だった。幼稚園から「こういうご本がありますよ」という案内をもらい、親に渡した時に「これが 読み たい」と意思表示し、ねだった本だったことを覚えている。一方で日本史の絵本は「いらない」とはっきり表明したことも覚えている。 そんな僕は高校性にもなると日本史の授業をサボりまくり、世界史なんて全く知らずに成長していくのだが、今思えばもっと歴史を勉強していれば良かったと思う。しかし、あの時にすでに自分の個性の一端が発現していたのだと諦めるしかない。三つ子の魂百までだ。 話を小学生の頃に戻す。二年生だった思うが国語の教科書で「王さま出かけましょう」という童話と出合った。子供みたいに我がままな性格の卵料理が大好きな王様が主...

R.O.starの素敵な客追い出し戦略

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サンドイッチの好きな具はツナとたまごの錆田鉄男です。 今日も私の愛するサンドイッチ屋さん R.O.star高田馬場店 のお話をする。R.O.starはいいお店である。いいお店は客が増えていく。客が増えていくと席が足りなくなる。満席に対してお店が最初にとった対策は客席を増やすことだった。 限られた空間にテーブルと椅子を増やしたので通路が狭くなり密集して快適さは犠牲になったが、キャパシティは増えた。しかし、R.O.starはwifiがぶんぶん飛んでてコンセントなんかもあって水素水が飲み放題のいいお店であるので、座席がすぐにまた不足するようになった。 仕事できそうな人がMacBook Airを優雅に操っててノマドだなと思ったり、高校生がスマホで勉強系Youtuberの授業を見ながら勉強してて未来だなと思ったり、日本語学校の留学生が「悪」とか漢字の書かれた単語カード見ながら勉強しててクールジャパンだなと思ったり、みんな思い思いに居座っていた。客の回転をよくするために高かったり低かったり背もたれがない椅子があったりして微妙に座りにくいにもかかわらず、コーヒー一杯で粘る客は少なくなかった。 まず、お店が打った手は「混雑時のご利用時間は 120分 を目安にしていただきますようよろしくお願いいたします。」というシールをテーブルに貼ったことだった。しかし、日本語を読めないお客さんもいるし、日本語を読めるお客さんに対してもこの手のお願いというものは実効性があまりなく、混雑は緩和されなかった。 次に、お店が打った手は「混雑時のご利用時間は 90分 を目安にしていただきますようよろしくお願いいたします。」というシールと張り紙をテーブルと壁に貼ったことだった。こちらも実効性はなかった。 そして、業を煮やしたお店が打った手は コーヒーの値上げ であった(もちろん混雑緩和の為だけではなく、人件費や原材料費が高くなったからということもあるだろう)。100円だったレギュラーサイズのコーヒーが150円になった。 これには普段テイクアウト派であった僕は激おこであった。店の混雑には寄与せず、売り上げだけに貢献していた僕は完全に割を食った形になった。普段から働かず通勤しないことで都内の満員電車の緩和や道路渋滞の緩和にも協力しているのに、なんという仕打ちであろうか。 僕は...

カレーは文学

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道元の「赴粥飯法」によれば食べ物の味は六味あるという。苦い、酸っぱい、甘い、辛い、塩っぱいの他に、6つ目として"淡い"というものがある。これは簡単に言えば素材の味ということだ。 金が尽き自炊をはじめたころ、この言葉に感銘を受けた。講談社学術文庫の「典座教訓・赴粥飯法」を買ってきて読み耽りその精神を学ぼうとした。 それどころか長年の持病である厨二病の発作が起きて、粥と一汁一菜の永平寺の修行僧みたいな食生活までしていた。 大根を漬物にし、葉っぱの部分は昆布出汁を引いてお味噌汁にする。干し椎茸から引いた出汁をゆっくりと弱火で煮て根菜に染み込ませた。 手間暇かかる作業だが暇人であったぼくには可能だった。なぜかうす暗くした部屋で暖房もつけなかったから空気は冷んやりとしていた。 食事中は、音も立てず粥を啜り最後は茶碗に湯を入れて飲む。妄想の中でぼくは修行僧だった。 だけどこの淡いという味を出すことは難しかった。自分の経験不足からか一度も納得の出来る淡さは出てこない。ぼくが作る料理は出汁と塩の味で作られたもので、そこに淡さは感じられなかった。それからしばらくして、修行僧ブームは去った。厨二病の発作は飽きと共に治るものだ。 その後に来たのがカレーブームであった。インド映画の「めぐり逢わせのお弁当」に出てくるカレーのお弁当がすごく美味しそうに見えたのがきっかけだった。 カレー粉や他のスパイスを買ってきてクックパッドとカレーのレシピ本を参考にしながら作りはじめた。いろいろ試しながらとりあえずはルーを使わないカレーを作れるようになった。そのころも玉ねぎを1時間以上炒めたりスパイスの量を測ったり長時間手間暇かけて作っていた。やはり暇人だからこそできることだ。 でも最近YouTubeの今日ヤバいやつにあったというチャンネルでインドの屋台を観てしまった。 彼らは超テキトーである。分量も味付けも。そして手際が凄く悪い。不合理の塊みたいな動きしか出来ない。しかもチョー不衛生。 最初はゲラゲラ笑いながら観ていたのだけど、だんだん彼らの料理に興味が湧いてきた。試しに100均で買ってきたガラムマサラ、クミン、コリアンダー、ターメリックをテキトーにぱっぱって入れてカレーっぽいものを...

神田川沿いを歩いてたら日本人は僕だけで他はみんな外国人だったりした話 in 高田馬場

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どうも、共同トイレ共同シャワーで家賃39300円(共益費込み)、築40年超のアパートに住んでおりますが外国人留学生の方が僕よりもいい家に住んでいるよねと思う錆田鉄男です。 成人式の日になると「東京都新宿区の新成人は半数が外国籍」というニュースが話題になるようになった。僕の記憶が確かならば 去年もニュース になったし、 今年もニュース になった。僕が住む高田馬場はまさに新宿区である。もっとも、このニュースを聞いても驚くこともなく、むべなるかなと思うばかりだった。 七年くらい前だったろうか。僕は派遣会社を辞めたので、国民健康保険の手続きをしなければいけなくなり、歌舞伎町にある新宿区役所に赴いた。年度初めの四月であったため各種手続きの窓口は大変混雑しており、ロビーには日本人はもちろん外国人も沢山いた。 普通なら健康保険の切り替え手続きなんて簡単に済むのだが、外国人が多いためか窓口の職員が苦戦しており、スムーズに人が流れていないようだった。僕の前には、 日本 語が流暢でないため知り合いの 日本 人を通訳につれて保険料を払う払わないと喧々諤々やっている外国人がいた。話を聞いているとどうやら保険料を長年滞納しているらしく、職員が納付を迫っているようだった。昔の分はチャラにしてやるからここ二年分は払え、せめて一年分は払え、みたいな話をしていた。 ああ、長くなりそうだなあとうんざりしていると別の職員に声をかけられ「 日本 人の方は分庁舎に行って下さい。そちらの方が早いですよ」と言われた。なんだか面白くない気分だが、その助言に素直に従った。鳩山由紀夫民主党幹事長が「 日本 列島は 日本 人だけの所有物じゃない」と言っていた意味を体感した。新宿区役所は 日本 人だけのものではないのだ。僕は結局自宅最寄りの分庁舎で健康保険証を受け取った。 僕の家の近くには 日本 語学校が多い。平日のお昼、お弁当を買いに行こうと僕が外に出れば、これまた昼食の調達に向かう 日本 語学校の生徒がわいわいと外に出てくる。神田川沿いを歩く 日本 人は僕だけ。自分以外全員外国人だったりすることもままあって、「どこの国やねん」と心の中で思わずツッコミを入れてしまうことも何度かあった。圧倒的マイノリティー体験である。 これがどういうことを意味するかというと、うちの近所の サ...

データ消えて人生終了

知り合いから頼まれごとをしている。その内容は彼が死んだとき、彼の家に行ってHDDを破壊してほしいというものだ。もちろん冗談半分ではあるが、そこに人間の死というものの一端を見ることが出来る。 そのHDDの内容は分からないが成人男性の所有するものなら想像がつくだろう。彼はそれを死後家族に見られることを恐れているのだ。 しかしそうなった場合もうすでに彼の肉体は滅びている彼が羞恥心を感じる感覚器官はもう存在しない。なのになぜ彼は感じることのない死後の恥を恐れるのだろうか。 人間の肉体は滅びる。にも関わらずひとは精神の持続を期待してしまう。もちろん、彼が特定の宗教を信仰しているということもないし、臨終のあと天使が天国に連れていってくれるなんていうことを考えているわけではないだろう。答えは単純であって精神が途切れた経験がないのだ。 よく死を眠りの比喩で語る人がいる。死ぬということは覚醒しない睡眠だと。でも、それは少し違う。眠っている自分は確かに存在していたし、それを自覚することも出来ていた。普通に夢を見るし尿意を感じて目を覚ますこともある。 でも朝目覚めた人間は睡眠に死を感じる。 なぜなら記憶がないからだ。 死は睡眠ではなくこの忘却に近い。 あったはずのものが消える。出来たことが出来なくなりその術を忘れる。 存在しなかったものと存在していたはずなのに消えてしまったものとの差は実は全くない。 ぼくに1998年9月4日の記憶は存在しない。 確かに生きていたはずなのにそこに記憶が存在しない。 記憶の容量に限界があるということは生命が存続すると同時に死を迎えてることだ。 日記を書けばこの死からの延命が可能にはなる。失われた記憶であっても過去の日記を読めば記憶の断片が繋ぎ合わされて復元されるからだ。そう考えると人間が何か記憶を外部に保存するのは生存本能かもしれない。 厳密に言えば死後、意識が途断えるのかはわからない。死後の世界や生まれ変わりもあるのかもしれない。ないと断言出来ないのは経験がないからだ。 こんなことを考えているときグレッグ・イーガンの「移相夢」という短編を思い出した。内容を簡単に言えば人間の脳のデータをまるまるロボットに移して永遠の命というSFにありがちな設定なのだが、この作品では人間からスキャンされたコピーデータが...

サンドイッチ屋さん「R.O.Star」の「パクチーチキン」を定番メニューにしたのは僕だと思う

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どうも、R.O.Starの「 パクチーチキン サンド」を一日三度食べていた男、錆田鉄男です。 高田馬場から高円寺発祥の センプレピッツァ が消え、 仲屋むげん堂 が消えてだいぶ経つ。ああ、中央線文化が消えていくなあ。え? 高田馬場は中央線通ってないだろって? いやいや、東西線が中野や高円寺に直通で乗り入れしてるからギリギリ中央線文化圏だと思う。 もう十年くらい高田馬場に住んでいるので、行き着けのお店が無くなるのを見送ることは珍しくない。夜勤明けに行った小諸そばも、引きこもってひたすらドラクエ9をしていたときに食生活を支えてくれたウェンディーズももうない。 しかし、人生には別れがあれば出会いもある。3年ほど前に R.O.Star(ロースター) というサンドイッチ屋さんが板橋から高田馬場に上陸した。三号店だそうだ。駅から近すぎず、遠すぎず、もともと喫茶店ルノアールが営業していたところに入れ替わる形で開業した。 営業開始直後は「あ、なんか新しいお店できたな」と思っただけで足を運ばなかった。けれども、以前お台場で働いていたときは毎日、飽くことなく、昼はサブウェイで野菜増しサンドイッチをコーヒーで流し込んでいたサンドイッチマンである。それに僕が育った錆田家の朝は必ずパン食で飲み物はドリップコーヒーだった。新しいサンドイッチ屋さんに足茂く通うことになるのは必定だった。 さて、このR.O.Star、もうひとつの売りは100円のコーヒーであった(過去形)。セブンイレブンがドリップコーヒー100円戦争の口火を切った後であるので当然価格はそうならざるを得ない。小学四年生からのカフェイン中毒者である僕はコーヒー戦争特需の恩恵を一身に浴びることができた。 R.O.Starが自宅の近所にできた頃、僕は適応障害の末、会社を辞めていた。医者に「熟睡できるようにする薬」「寝付きをよくする薬」「不安や緊張を和らげる薬」「気分を明るくする薬」を処方されていたが、会社に行きたくなかったのと同じように、病院にも行きたくなかった。 なぜならば、僕が「白髪がだいぶ増えました」と心労の程度を語ると「君なんかまだいいよ! 僕なんかね髪が無いんだよ! プロペシア飲んで頑張ってるんだ! 錆田さんはまだ生えてるからいいじゃん。染めればいいんだし」と赤...

ゼロになるからだ充たされてゆけ

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どうやら平成が終わる前に預金の寿命が終わることが確定した錆田鉄男です。 僕は 心が叫びたがってる 時にはよく一人でカラオケに行くのだけれど、必ず、覚和 歌 子さんの「 いつも何度でも 」を 歌 う。言わずと知れた「千と千尋の神隠し」の主題 歌 だ。カラオケに行くたびに歌うので、まさに、いつも何度でも、なのだ。 そもそも、カラオケなんて一人じゃ行くものじゃないと思っていたし、人と行くカラオケも全く好きじゃなくて、特に大人数で行くカラオケが大嫌いだった。他人が 歌 う知らない 歌 を聞くのも苦痛だし、興味が無いのにノッた振りをするのも苦痛だし、かといって誰かが 歌 っているのに全く聴かないでデンモクで次に 歌 う曲を一心不乱に検索して最後にパチパチパチと三回くらいおざなりに手を叩いている人を見るのも苦痛だし、僕が 歌 う番になるとみんなトイレに立つのが何より苦痛だった。 カラオケ屋の個室内のストレスの総量は変化しない。みんなが 歌 って発散したストレスが全部自分に流れ込んでくる。エネルギー保存の法則にも似たストレス保存の法則があの場を支配していることを真理として疑わなかった。 なぜ、そんなカラオケ嫌いの僕がカラオケ屋に行けるようになったかというと近年日本の夏を襲う酷暑のせいだ。四年前の八月、ビル設備保守会社で働いていた僕は常駐先の会社の上司(仕事中に飲酒する元自衛官)のパワハラにより心身を壊して適応障害の診断が下され休職中した。僕と同じアパートに住む Tくん は大学時代からの友人で、部屋にこもりがちな僕を時々外に連れ出してくれた。 今考えると恐ろしいことだが僕の部屋にもTくんの部屋にもクーラーが無かった。なので生命の危機を感じるような酷暑の日にはカラオケ屋に二人で避難するようになった。カラオケ屋にいるのだから、マイクを握って 歌 いだすのも自然な成り行きだった。彼とは気心の知れた仲だ。 歌 おうが寝てようが知らない曲を 歌 おうがスマホをペタペタ触ってようがアニソンを 歌 おうが飲み放題のドリンクを追加注文しようが筋肉少女帯を 歌 おうが自由だった。気を使う必要なんて無かったのだ。Tくんとのカラオケを通じて「ストレス保存の法則」が絶対真理でないことを初めて知った。 秋になって仕事に復帰した僕は客先常駐の仕事ではなく、本...

クワガタ

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寝ておきてまた寝ておきて。そんな生活に憧れるけど実際やっても確実に1ヶ月で飽きるだろうな。 犬猫は懐くけど爬虫類とか昆虫とかは懐かなくてただ慣れるだけだと言われる。まあ大抵は当たってる。 でもその昔、ノコギリクワガタをお迎えしたことがあって、その子には自分の手に蜂蜜をつけて食べさせていた。最初のうちは持ち上げると興奮して逃げようとしていたその子もだんだんと暴れなくなった。その部分は慣れだろう。 ある日、蜂蜜塗ったぼくの指を綺麗に平らげたクワガタくんはまだ食べ足りなかったのだろうか。ぼくの指を甘噛みと呼んで良いのか大顎で優しく何回か挟んだ。 その動きが可愛くておかわりの蜂蜜を食べさせてあげた。その日から毎日彼は甘噛みでもっておかわりを要求した。クワガタの記憶力がそんなに良いとは思わなかった。その子がたまたま天才クワガタだったのかもしれない。 それからは虫かごをスポンジで磨いていても向こうから近づいてきて手に大顎をスリスリしてきた。別の面に移ってもゆったり歩きながらこちらに近づいてきてまた大顎をスリスリしてきた。 ここまでくると間違いなく懐いていると断言出来る。 部屋に帰ってきたぼくの姿を虫かごの中から見つけると彼はガラスに遮られているにも関わらずこちらに全力でダッシュしてくる。虫かごの蓋を開けて指を差し出すと大人しく指にしがみつく。蜂蜜を垂らしてあげると美味しそうに舐める。 例え昆虫とは言え感情の通じ合えた存在との同居は楽しかった。彼が天国行へ旅立った冬の日は泣いた。マッチ箱で棺桶を作ってあげて近所の公園に埋蔵した。ネットがあるいまならもっと上手く飼えて長生きさせてあげることも出来たかもしれない。いまは本当に良い時代だ。

こうして僕は書くしかなくなった

どうも、ポンコツ無職のスペシャリスト錆田鉄男です。 失業した僕に以前、叔父が言った。 「好きなことがあるなら乞食になってでもそれをやれ。好きなことが無いなら楽な仕事をやれ」 至言である。 人生は切り立った崖であり、「好きなこと」はそこを登っていくための取っ掛かりであり足場である。そして崖の下で人生に対するアプローチを見つけられず途方にくれていたのが僕であった。 自分にはこれと言って大好きなことがなかった。それなりに好きなことはあったが、趣味と呼べるくらいのめり込んできたことが無い。ゲームもアニメも漫画も嗜んできたがオタクにはなれず中途半端であった。 そんな僕を昔付き合っていた女性は「専門性の無いオタク」と的確に評した。慧眼だった。とりえの無いオタクっていいとこ無しじゃん! オタクっぽくて気持ち悪いだけじゃん! 今も彼女の言葉が心に刺さって抜けない。その彼女にはすぐ振られた。 移ろいやすい心を有する人間という不安定な存在に人生クライミングの足場を任せるわけにはいかない。昔のアニメでよく見る「色の違う岩」みたいに崩れやすいのだ。アイドルを崇め奉り布施を欠かさず、ライブに必ず足を運ぶ熱心な信者がうらやましい。皮肉ではなく心底そう思う。自分には信仰心が無い。 では組織に属することはどうか。小中高そのどの時期も「愛校心」を感じたことはほとんど無い。大学時代も同じく自分の所属する大学の野球チームや駅伝チームの勝敗に全く関心が持てなかったし、応援に行こうとすら思わなかった。 会社もそうだ。正社員として二度就職し二度退職して、派遣会社で仕事したりしなかったりを経験した結果、働くことが向いていないことが判明したばかりで好きなことは見つからなかった。むしろ働けば働くほど会社を憎むようになった。働いていた場所は漏れなく「不浄の地」となり、嫌いな場所が増え生きにくくなっただけだった。 三年前、職場の上司から退職を勧める電話を布団の中で受けてからこっち、ずっと好きなものを探したが布団の上と夢の中にしか居場所を見つけられなかった。 一度辞めた株式取引にも再び手を出したが結果は「 アキュセラ逃げ場なしの6日連続ストップ安 」という憂き目に遭い退場した。そう言えば前回株を辞めたときはライブドアショックの時だった。株式市場にまで嫌われるに至っては、もう人生に向...

軍曹殿との思い出

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鉄っちゃんが山本一郎さんに取り上げていただいて出世街道を進むなかぼくは日陰ライフを満喫する予定です。こんにちは。日陰です。 今日は少し思い出話をしたいと思います。 タイトルにもある通り軍曹殿との思い出です。 ぼくが、小中学生時代よくつるんでいた幼馴染がいました。 仮にタカシくんとしておきましょう。 彼とは家が近かったので夏休みなんかは彼の家にほぼ入り浸っておりました。なんせ孫に甘いお爺ちゃんお婆ちゃんがいるので最新のゲームが揃ってたんですよ。 ぼくの家はやたらとゲームを毛嫌いする両親がいたかは買ってはもらえないし、お小遣いを貯めて買ったとしても当時都市伝説的に流行したゲームは1日1時間ルールに縛られてしまっていました。長時間、しかも最新のゲームをやろうと思ったらタカシくんの家に行かないといけないわけですね。 しかしお婆ちゃんにはひとつ欠点があって兎に角癇癪持ちなのです。しかもキレると何するかわからない人で何度か血だらけになったタカシくんを見かけたことがあります。 その日も夏の暑い日でした。タカシくんの家に行ったらタカシくんとお婆ちゃんが喧嘩をしていました。内容はよく分からないけど激昂したお婆ちゃんは昼食に買っておいた吉牛を窓から砲丸投げのスタイルで放り投げたのです。 喚き散らすお婆ちゃんと窓の外で無残に散らばった吉牛を無視してタカシくんの部屋に篭り夕方までゲームをしていました。 夕方になりゲームにも飽きてきました。2人でダラダラ駄弁っているとあの吉牛の話になりました。誰も片付けていないから散らばったままのはずです。ふたりで見に行こうということになりました。 外に出てお婆ちゃんが放り投げた窓の外あたりを見ると散らばった吉牛に真っ黒い何かが何体も群がっているではないですか。 そうです。Gの皆さんのホームパーティ会場となっていたのです。 ぼくとタカシくんは相談の上、ファミリーGを 焼き討ちにすることにしました! 家からありったけの花火を用意して一斉に火炎放射しました。 焼かれる牛肉とG肉の香ばしい匂いが立ち込めて普通の人なら吐き気を催すことでしょう。我々はゲラゲラ笑いながら香ばしい匂いを吸い込んでいました。 逃げ惑うGの皆さんを...

僕は未来で貝になる

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どうも、「 私 は貝になりたい」と思う 錆田鉄男 です。 とは言っても来世は深い海の底の貝になって誰とも口を利かず静かに暮らしたいということではなく、電子の海において大森貝塚の貝のようになりたい、と最近よく思うのであります。意味が分からないだろうから説明すると貝塚というのは大昔の人間のゴミ捨て場で、貝やら食べ物のカスやら土器やら石器やらが沢山見つかる場所で、昔の人間の生活をうかがい知る事ができる遺物であるので、考古学の資料としてはとても価値があるものなのだ。インターネットという情報の大河に、 自分 が持っている情報も加えたい。あわよくば十万年未来の考古学者に研究資料を提供したい。そんな気持ちになった、というわけだ。 僕は特別SF小説が好きというわけじゃないけれど、半年に一回くらい作家・伊藤計劃さんのブログを確認しに行く。ちょうど十年ほど前に癌で亡くなった人なので新しいエントリーが追加されることはない。何を確認しているかというと「ブログが今も存在していること」を確認しに行っているのだ。はてなダイアリーに書かれた「 伊藤計劃:第弐位相 」は株式会社はてなが健在なうちは存在し続けそうだ。 ちょうど二十年くらい前、南条あやさんという日本初の精神病んじゃってる系ネットアイドルが自殺してしまった。彼女の死後、婚約者や親しかった人たちが「南条あやの保護室」という名前を付けたウェブサイトを作り、彼女の遺した日記や思い出をインターネット上に記録した。が、このサイトは運営上色々と揉めたようで有志の管理から彼女の実父に管理が移ったのち、閉鎖され、無くなってしまった。今はアメリカの非営利団体Internet Archiveのサーバーの中にその 痕跡 を残すのみである。 生きている人間は日々変わって行くし、飽きるものだ。仮に元婚約者が新たな恋人を見つけて墓守の任を降りても不誠実だと責められない。個人が一生を賭して墓守をするのは難しいことだと思う。幸い、伊藤計劃さんは小説を残し、幸か不幸か南条あやさんは死後に日記が(アンネの日記のように手を加えられた上で)出版された。彼らの著作は図書館で司書に見守られ書庫で紙媒体として存続し続けそうだ。 「The Internet Never Forgets」 事件・事故・悪事は千里や万里を走り回った後、インターネットはそれを記録して忘...

カマキリ

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昔から生き物が好きでよくいろいろな生き物を捕まえてきて飼っていた。 普通の人があまり飼わないような生き物も結構飼ったことがある。 小学生のころ学校からの帰り道にオオカマキリの子供と出会った。 肉食の昆虫は飼ったことがなかったからその場で拉致じゃなかった、お迎えしてしばらく飼っていた。 動画の子とは違って餌を取るとが下手でかなり苦労した。 最初は小さいバッタを与えてたけど襲う様子もなく次に蟻を与えたけど反応速度が蟻の移動速度に追いつかない。ピンセットで口に近づけてみても逃げる始末。 図書館でカマキリの生態を調べたら縦に動くものに反応するみたいで紐で吊った蟻を縦に動かしてから口に近づけると鎌で捕まえて食べてくれた。 だけど少食な子で小さい蟻でもほとんど残してしまうから毎日あげなくてはいけなくて大変だった。 虚弱カマキリちゃんはそれからしばらくして脱皮に失敗して天国へ行ってしまったがいまとなっては良い思い出だ。

アイドルが卒業して人生終了

最近気が滅入ることが多くて数日間更新出来なかった。そして今日も某アイドル卒業のニュースでショックを受けているw オタクの2大ジャンルといえばアニメとアイドルだろう。若いときはアニメはまあまあ好きだったがアイドルには一切興味が無かった。 というか正直いい大人が娘みたいな年齢の少女に熱をあげることを心のどこかでバカにしていた。 そのかわりアニメは30分で終わるという尺的なコンパクトさからちょうど良い娯楽だったし、周りも大抵は話題作程度だとしても観てる人が多かった。 30近くになったころだろうか。友人がひとり、ひとりとアニメを見なくなっていった。たぶん脳が老化したのだろうと思ってた。 そんなときにある友人がアニメを見なくなった。アニメを辞めてアイドルヲタになってと聞いて心底ショックを受けた。そのひとのことは尊敬していただけに軽蔑しているアイドルヲタになったことに納得出来なかった。その人とはよく付き合いでAKBカフェなんかに行ったのだけどアイドルのことは好きになれなかった。 それが去年くらいか、ある日突然ぼくもアニメを観られなくなった。観ても物語に入っていけなくてついついスマホをいじってしまう。1話見逃しても別にいいやってなってしまう。 それに代わってなぜかダラダラアイドル番組を観るようになった。その変化に自分でも驚いている。 自分がアニメを観ないアイドル好きになってしまったからそこ分かることもある。 アニメは可能性の物語である。ある日特殊能力を身につける、ある日美少女と同じクラスになる、ある日大きな陰謀に巻き込まれる、ある日異世界に転生して無双する等。 それは自分の人生にも可能性を感じているからこそ物語の可能世界にワクワクすることが出来るのだ。自分の人生に可能性を感じられなくなった瞬間そこに感情移入が出来なくなってしまう。 それに対してアイドルとは"若さ"なのだ。若くて見た目が美しい人間は若さを最大限に楽しむことが出来る。歌が下手でも踊りが出来なくても、頑張りますで許される世界。少し上手くなれば褒められる世界。これが若さの特権でありアイドルの本質なのではないか。 アイドルがただ街をぶらぶら歩くだけの映像を見てどこが楽しいのだろうか。たしかにそうだ。しかしぼくらはそれを楽しんでしまっている。 それは若さ...

じいちゃんと軍艦旗

どうも、錆田鉄男です。じいちゃんのことを記録しておきたくなったのでじいちゃんのことを書きます。 三年前、じいちゃんが死んだ。93歳であったか、94歳であったかな。死因は老人性白血病と聞いたが大往生の部類だろう。じいちゃんは動物が好きで、晩年は「那智」と名付けた柴犬をとても可愛がっていた。旧海軍の軍艦から取った名前だ。もちろん艦これにハマっていたわけではなく、じいちゃんは大日本帝国時代に海軍に所属していたリアル軍人であったからだ。じいちゃんは「足柄」という重巡洋艦に乗っていた。 じいちゃんの居室にはずっと「足柄」の写真が額に入れられて飾ってあった。亡くなる三ヶ月前、最後に顔を合わせたとき少しだけ「足柄」に乗っていた時の話を聞いた。じいちゃんの鹿児島弁は標準語話者には字幕が必要なほど難しいので、ネイティブじゃない自分は半分くらいしか理解できなかったけれど、それでも面白く聞いた。 マラリアにかかると食べ物が全部苦く感じるけれど、病み上がりに飲んだ葱の味噌汁がものすごくうまかった、ハイナン島のバナナがうまかった、とか食べ物話が多かった。海軍は飯がうまいというのは本当だったのかもしれない。あとは、船の上で相撲をとったとかそんな話もしていたが一番面白かったのは「船の中にラムネ工場があってラムネ作ってた」という話だった。 じいちゃんは上官に気に入られてたそうで、港に着いたときなんかに「ラムネの元」を買い物ついでに調達してくるよう言われ金を渡されたそうだ。詳しい工程は分からないけれど、原液か何かを水で薄めて炭酸を入れて瓶に詰めていたらしい。そうしてできたラムネを隠れて飲むのが最高にうまかったソーダ。ソーダだけに。 軍艦にラムネ工場があるというのを最初はすごく奇妙で面白いなあ、と思ったけれど、壊血病予防にビタミンを含むレモンを船員が食べてたとかいう話は聞いたことあるし、レモネードがなまってラムネになったらしいし、海の男たちがラムネを欲するのは自然なことだったのかもしれないと思った。 じいちゃんは志願兵で横須賀の海軍の学校で砲術を学んでいたそうだ。そう言えば、昔、じいちゃんがつくば万博に行くために上京した際、横須賀の三笠公園に立ち寄り、戦艦「三笠」を見学していたことを思い出した。じいちゃんは戦艦が好きだったのだ。 戦後はサラリーマンや農家をやっていたじいちゃ...

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ぼくの祖父は獣医さんで、そのDNAなのか生き物が凄く好きなのよ。 なのでこのブログでも好きな生き物を紹介していくよ。 記念すべき第1回目はナマズさんだよ。 ナマズはヒゲ生えてゆったり泳ぐイメージあるかもしれないけど意外と貪欲で大食漢だから飼うときは餌と水槽の汚れには注意したいね。 あの大きな口は自分とそんな変わらない生き物までペロリだよ ナマズさんなら鯰絵も有名だね。 日陰んは鹿島神宮に行ったとき鯰絵が欲しかったけどなかったから鯰絵ぬりえっていう微妙なものを買ったけどまだ色付けてないよ🤩

人生で一番猫に囲まれた日

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どうも錆田だよ。来世はお金持ちの家の 猫 になってCIAOちゅーるいっぱい食べて一日中寝てたいです。 2011年の秋ごろだったかな。当時の僕は派遣社員として池袋サンシャイン60の一角で働いていたんだ。事務作業だったのだけど女性ばかりの職場で、なんだか居心地が悪くてお昼はいつも一人で外に食べに出ていたんだ。 東池袋中央公園は、晴れた日にお弁当を食べるのにちょうどいい感じの公園で、昼時になると僕と同じようにお弁当食べる労働者が集まってきたよ。それとこの公園はやたらと人懐こい野良 猫 たちが住み着いていてね、みんなに可愛がられていたよ。 今は撤去されてなくなってしまったけれど、当時はアウトドア生活を送る先輩たちのブルーシートのお家もあってね、豊かな公園だったんだ。あ、「先輩」って言うのは錆田と日陰くんの間で「ホームレス」に対して使ってる愛称だよ。敬意と畏怖を込めてそう呼んでるよ。何より明日はわが身、自分もいつホームレスになるか分からない身の上だからね。現在貯金残高14万円だし。皮肉でもなんでもなく僕の前を歩く人生の先輩だよ。 ここの野良 猫 が異常に人懐こかったのは多分先輩たちが愛情を注いでいたことも一因だと思うよ。 まあ、そんな前置きはおいておいて にゃんこ の写真を見ていこう。 その日は件の公園でファミリーマートのから揚げ弁当を食べようとしていたんだ。 本当はセブンイレブンのから揚げ弁当のほうが好きだったんだけど、 サンシャイン60はファミマの本社が入っていたからファミマしかなったんだよね。 こんにちは、こんちには、 ベンチに座り弁当のふたに手をかけようとすると 猫 が忍び寄ってくる。 レンジでチンされた熱々のから揚げが にゃんこ たちの嗅覚を刺激する。 ぞくぞくと集まる にゃんこ 軍団。 おい、てめーなに撮ってんだ、から揚げ一個で許してるよ的な眼光。 いなばが世に送り出した比類なき キャット フードCIAOちゅーるを 人類が手にするのは2012年のことなので、この時はまだなかった。 すみませんマヨネーズで許してください。 あ、だめですか。気に入らないですか。 山賊 猫 と貧乏派遣社員による貴重なたんぱく源...