カレーは文学

道元の「赴粥飯法」によれば食べ物の味は六味あるという。苦い、酸っぱい、甘い、辛い、塩っぱいの他に、6つ目として"淡い"というものがある。これは簡単に言えば素材の味ということだ。

金が尽き自炊をはじめたころ、この言葉に感銘を受けた。講談社学術文庫の「典座教訓・赴粥飯法」を買ってきて読み耽りその精神を学ぼうとした。

それどころか長年の持病である厨二病の発作が起きて、粥と一汁一菜の永平寺の修行僧みたいな食生活までしていた。

大根を漬物にし、葉っぱの部分は昆布出汁を引いてお味噌汁にする。干し椎茸から引いた出汁をゆっくりと弱火で煮て根菜に染み込ませた。

手間暇かかる作業だが暇人であったぼくには可能だった。なぜかうす暗くした部屋で暖房もつけなかったから空気は冷んやりとしていた。

食事中は、音も立てず粥を啜り最後は茶碗に湯を入れて飲む。妄想の中でぼくは修行僧だった。

だけどこの淡いという味を出すことは難しかった。自分の経験不足からか一度も納得の出来る淡さは出てこない。ぼくが作る料理は出汁と塩の味で作られたもので、そこに淡さは感じられなかった。それからしばらくして、修行僧ブームは去った。厨二病の発作は飽きと共に治るものだ。

その後に来たのがカレーブームであった。インド映画の「めぐり逢わせのお弁当」に出てくるカレーのお弁当がすごく美味しそうに見えたのがきっかけだった。

カレー粉や他のスパイスを買ってきてクックパッドとカレーのレシピ本を参考にしながら作りはじめた。いろいろ試しながらとりあえずはルーを使わないカレーを作れるようになった。そのころも玉ねぎを1時間以上炒めたりスパイスの量を測ったり長時間手間暇かけて作っていた。やはり暇人だからこそできることだ。

でも最近YouTubeの今日ヤバいやつにあったというチャンネルでインドの屋台を観てしまった。




彼らは超テキトーである。分量も味付けも。そして手際が凄く悪い。不合理の塊みたいな動きしか出来ない。しかもチョー不衛生。

最初はゲラゲラ笑いながら観ていたのだけど、だんだん彼らの料理に興味が湧いてきた。試しに100均で買ってきたガラムマサラ、クミン、コリアンダー、ターメリックをテキトーにぱっぱって入れてカレーっぽいものを作ってみた。

出来上がったもの、それは正しくカレーだった。

スパイス入れればなんでもカレーなのだ。ターメリックの色でクミンの香りがして辛ければ、まあカレーと呼んで大丈夫だろう。

その意味ではスイカにすらマサラをかけるインド人は食べるもの全てカレーと呼べる。素材の味とか活かす気ゼロである。淡いなんて概念は存在しない。ただカレーなのだ。

豚を入れてもカレー味
羊を入れてもカレー味
豆を入れてもカレー味
魚を入れてもカレー味

食材のブラックホールみたいな存在であらゆるものをカレーに変えてしまう。

ネットで見かけた話なのだけど、インド人に日本人はカレーが好きなんですよって言ったらカレーってなんだ?って言葉が返ってきたらしい。インド人にはそんな概念すらないみたいだ。

おそらく日本人がカレーと呼ぶものはインド人が食べてるっぽい料理の総称なのだ。

ぼくはインドの屋台系YouTubeチャンネルを片っ端から登録して毎日観賞している。道に落ちた肉を鍋に戻しても鍋の中で蝿がプカプカ浮いていても不快感はない。むしろ牧歌的な風景に癒されてしまう。

インドに行くと人生観が変わると言われるが、ぼくの場合はインドの動画で料理観は変わってしまった。手間暇なんてかけなくても良い。味付けならテキトーにスパイスと塩振ってAJINOMOTOかければそれなりの味になる。ぼくは淡い味を引き出せなかったがそれでもカレーのブラックホールに吸い込まれればカレー職人になれる。

コメント

  1. 日陰くんがキャンプで作ってくれたカレーをもう一度たべたいのでまたキャンプしようぜ。
    あのカレーは文学だった。

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    1. 次のキャンプではビリヤニ作りたい。ビリヤニは人生。

      削除

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