データ消えて人生終了

知り合いから頼まれごとをしている。その内容は彼が死んだとき、彼の家に行ってHDDを破壊してほしいというものだ。もちろん冗談半分ではあるが、そこに人間の死というものの一端を見ることが出来る。


そのHDDの内容は分からないが成人男性の所有するものなら想像がつくだろう。彼はそれを死後家族に見られることを恐れているのだ。


しかしそうなった場合もうすでに彼の肉体は滅びている彼が羞恥心を感じる感覚器官はもう存在しない。なのになぜ彼は感じることのない死後の恥を恐れるのだろうか。


人間の肉体は滅びる。にも関わらずひとは精神の持続を期待してしまう。もちろん、彼が特定の宗教を信仰しているということもないし、臨終のあと天使が天国に連れていってくれるなんていうことを考えているわけではないだろう。答えは単純であって精神が途切れた経験がないのだ。


よく死を眠りの比喩で語る人がいる。死ぬということは覚醒しない睡眠だと。でも、それは少し違う。眠っている自分は確かに存在していたし、それを自覚することも出来ていた。普通に夢を見るし尿意を感じて目を覚ますこともある。


でも朝目覚めた人間は睡眠に死を感じる。

なぜなら記憶がないからだ。


死は睡眠ではなくこの忘却に近い。


あったはずのものが消える。出来たことが出来なくなりその術を忘れる。


存在しなかったものと存在していたはずなのに消えてしまったものとの差は実は全くない。


ぼくに1998年9月4日の記憶は存在しない。


確かに生きていたはずなのにそこに記憶が存在しない。


記憶の容量に限界があるということは生命が存続すると同時に死を迎えてることだ。


日記を書けばこの死からの延命が可能にはなる。失われた記憶であっても過去の日記を読めば記憶の断片が繋ぎ合わされて復元されるからだ。そう考えると人間が何か記憶を外部に保存するのは生存本能かもしれない。


厳密に言えば死後、意識が途断えるのかはわからない。死後の世界や生まれ変わりもあるのかもしれない。ないと断言出来ないのは経験がないからだ。


こんなことを考えているときグレッグ・イーガンの「移相夢」という短編を思い出した。内容を簡単に言えば人間の脳のデータをまるまるロボットに移して永遠の命というSFにありがちな設定なのだが、この作品では人間からスキャンされたコピーデータが世界中でバラバラに保存されコピーと消去を繰り返しながらデータがロボットのもとで再統合される。そのロボットになった時点で人間としては死んでいるのではないかという話なのだが、現実の人間だってそれは同じことだ。


10年後意識の持続があれば、ぼくはこのブログを読み返して2019年3月20日の記憶を再構成する。しかしそれは決して2019年3月20日ではないのだ。逆に言ってしまえば、10年後何かに生まれ変わっていたり天国にいてこのブログをぼくが読み返すことが出来なかったとしても読み返しているぼくと同じく2019年3月20日のぼくが消失していることは変わらない。そこには死がある。



※1998年9月4日は長濱ねるちゃんの産まれた日




コメント

  1. >存在しなかったものと存在していたはずなのに消えてしまったものとの差は実は全くない。

    この言葉は実に重い。
    なかったことにしてはいけないと言っていた観測者岡部倫太郎の存在は実に重い。
    どうあれ、ブログを書くしかないと思うばかりだよ。

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    1. オカリンも売れてしまったおかげであと5年は存在しそうですね。

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