僕は深沢美潮先生に感謝する

どうも、頭の中で音読して本を読む錆田鉄男です。遅読です。

「喋る」ためには「聞く」ことが必須で、「書く」ためには「読む」ことが必須である。「書く」ことについてはこのブロクで少し触れたから今度は「読む」ことについて書こうと思う。

自分は読書家を自称できるほど本を読んでいないが、本を全く読んでいない人よりは多く読んで来た。二十代前半くらいまではそれなりに読書をしてきたと思う。大学を卒業してからは、労働ですっかりくたびれて活字を追う習慣を失い、生来の遅読家であることも手伝って本を読む機会が激減した。現在、自分の有する語彙力の95%は学生時代以前に獲得したものだと思う。

読書は現代人の義務だ。印刷文化が極めて発達したこの日本で一切読書をせずに死んでいくのは難しい。本人が読書を望まずとも親が自分の教育テーマに適った本を子に買い与えたり、学校が読書を奨励したりするからだ。

僕は五歳までおねしょをしていた。「寝る前に牛乳を飲んだ男の子がおねしょする絵本」みたいのを両親に買い与えられ何かの教訓を得させようとしていたような記憶がある。これが最初の読書だったかもしれない。またキリスト教系の幼稚園だったので「イエスさま」の絵本を沢山持っていた気がするがこれは見た記憶が残っていない。これは読書体験とは言えない。

自分の意思で初めて読んだと思える本、最初の読書体験はいつだったか思い返してみると、幼稚園の時だった。子供向け教育番組の「まんがはじめて物語」を幼児向けにリライトした絵本だった。幼稚園から「こういうご本がありますよ」という案内をもらい、親に渡した時に「これが読みたい」と意思表示し、ねだった本だったことを覚えている。一方で日本史の絵本は「いらない」とはっきり表明したことも覚えている。

そんな僕は高校性にもなると日本史の授業をサボりまくり、世界史なんて全く知らずに成長していくのだが、今思えばもっと歴史を勉強していれば良かったと思う。しかし、あの時にすでに自分の個性の一端が発現していたのだと諦めるしかない。三つ子の魂百までだ。

話を小学生の頃に戻す。二年生だった思うが国語の教科書で「王さま出かけましょう」という童話と出合った。子供みたいに我がままな性格の卵料理が大好きな王様が主人公の話だ。読んだのが大昔なので内容はよく覚えていない。

この童話はシリーズものであるということを知り、シリーズ制覇のために初めて市民図書館を利用した。その年、クリスマスにサンタさんに頼んだのも、寺村輝夫「ぼくは王さま」シリーズであった。あの頃の僕は安上がりで孝行息子だった。

小学生が教科書に出てきた物語からさらに物語を求め、図書館の利用方法までを覚えた。公教育の勝利である。

しかし、小学校高学年になると「字が多めの本」の読書習慣は一度失われる。漫画の方が面白いからだ。漫画が月に一、二冊は買えるお小遣いをもらえるようになったこともあり、コロコロコミックで連載していた小林よしのりの「おぼっちゃまくん」、河合じゅんじの「かっとばせ!キヨハラくん」といった漫画を好んで読んでいた。

小学校の卒業が近い頃になると大塚英志・田島昭宇「魍魎戦記MADARA」にハマった。当時としては先進的なメディアミックスを見据えたゲーム的演出が取り入れていた漫画だ。ファミっ子であった僕のハートはすぐに虜になった。ヒロインや女性キャラクターの裸が拝めたのもすごく良かった。性の萌芽だ。

公教育は敗北したが清濁併せ呑んでこそ、真の成長というもの。両親とも仕事に忙しかったので、子供が家に持ち帰る漫画に検閲が入らなかったのは大変良かった。

小学生の時には漫画は自然と娯楽となった僕だったが、字でみっちりページが埋まった小説から楽しみを引き出せるようになったのは中学生になってからだ。

四歳上の兄は活字中毒で、我が家には兄が読み散らかしたジュブナイル小説やヤングアダルト小説が落ちていた。少女小説レーベルであるコバルト文庫の氷室冴子の小説なんかも兄は読んでいた。読書する環境は整っていたが自分の入り口はそこではなかった。

自分が「ページを繰る楽しみ」あるいは「残りページ数が少なくなったときの寂しさ」を覚えるようになったのは深沢美潮さんの小説「フォーチュン・クエスト」読んだときだった。現在、ライトノベルと呼ばれる小説群の潮流をさかのぼっていけば必ずたどり着く、角川スニーカー文庫を代表する元祖ライトノベルである。水野良の「ロードス島戦記」なんかももちろん読んだが、読書の楽しみを教えてくれた一番の恩人はやはり深沢美潮さんだ。

この小説を気に入ったのも「MADARA」と同じでゲーム文化の影響下にある表現が多く取り入れられ読みやすかったからだ。ファミコン世代は僕と同じようにゲームを通して物語を体験してきた人が少なくない。ロールプレイングゲームの文法に則った魅力的なキャラ造形、レベルだの職業だのスキルだの装備だのモンスターだの、そういった用語が散らばるファンタジー世界は遠い世界のようでいて実に身近だったのだ。

現在、ライトノベルは異世界転生ものの小説で溢れ返っている。僕も「フォーチュン・クエスト」を読んでいるときは、剣と魔法のファンタジー世界に生まれ変わってパステルやクレイやトラップと一緒に旅をしたいと願っていたわけだから、この流れは来るべくして来たものだと理解できる。

「フォーチュン・クエスト」の最新刊を心待ちにし、新刊を書店で手にしたときは胸が踊り、知らない言葉を辞書で引きつつ楽しく読書した中学生の頃のような体験は遠い昔の素敵な思い出だ。この年になるともうああいった読書はできないのだと思うと残念でならない。

幸い「フォーチュン・クエスト」は出版社を変えながら刊行が続いている。もうすぐシリーズ刊行三十周年を迎える。もうおじさんになってしまったけれども、これを機に実家の押入れに眠っているパステルたちに会って、もう一度彼女たちとの冒険を再開してみようかな、と思うのであった。

コメント

  1. ワイは文字が読めない男やからどれ1つとして分からんわ

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    1. 年も背景も違うんだから知らなくても当然。

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