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平成化石9 最終回

もう平成も本当に残りわずかとなった。最近は忙しくてブログの更新頻度も落ちてきた。もしかすると今回がこの平成シリーズのラストになるかもしれない。平成シリーズのラストとして書きたいことを今回書いて一応の最終回にしようと思う。(またこのシリーズの続きを書くとしても"裏面"として書いていきたい) ぼくの祖父はギリギリ明治産まれだった。祖父も父も高齢で子供が出来たのでぼくと祖父の年齢差は80近くあったはずだ。 前述した通り、祖父は平成3年になくなるまでの数年は一緒に住んでいた。祖父は脳溢血の後遺症でほとんど寝たきりだったが頭はずっとクリアなままで、幼かったぼくとも良く会話をしていて古い幼いときの記憶なのによく覚えている。 祖父が見た明治大正昭和の話は平成を生きるぼくにとって刺激的なものだった。祖父の家は金持ちで何不自由なく暮らしていたが実母が亡くなり新しくきた継母に子供が出来ると父親(つまり曽祖父)に邪険に扱われて大学の学費も出してもらえなかったから家出して大物政治家の書生になって居候しながら大学に通ったそうだ。大学時代はマルクスを読んで共産主義にハマり当局に目をつけられていたそうだ。 神田のカビ臭い古本屋にある埃かぶった岩波文庫の小説みたいな話だ。決して下宿先の娘が祖母だとかいうオチではない。 大学を卒業し転向を果たした祖父は、官僚となって戦時中もなんの苦労もしたかったが戦争も末期になると転勤という名の疎開をしてしまったがために出世コースから外れてのんびりと地方を転々として隠居後は当時は金持ちのブランドだった逗子で過ごした。 鉄男くんの生家が山下寿朗の別荘だったのもいまでは考えられないくらい逗子にブランド価値があったからだろう。ここまで平成シリーズなのに随分と平成以前のことが多くなってしまった。 最後の数年間の祖父との会話はこの平成の化石を作るというこのシリーズの元ネタのひとつだったりする。いつか誰かが発見してくれたときにぼくが祖父の話に感じた好奇心を未来に生きる誰かに感じて欲しい。 子供のころはみんなちょんまげ生やしていたの?とぼくは祖父に聞いたことがある。祖父は笑っていた。幼いぼくにとってはかなり真剣な質問だったのだけど。でも、ぼくも昭和の終わりに産まれているのだから令和のつぎの年号で産まれてくる子供には同じ質問をされ...

僕が昔住んでいた家の所有者の山下さんはそこらへんの山下さんじゃなかった話

となりのトトロを観ると昔住んでいた家を思い出して懐かしい気分になる錆田鉄男です。 僕は神奈川県の逗子という町の海の近くで育った。そして、小学校低学年まで住んでいたその家は少し変わっていた。特徴を一言で言うと「ものすごく古い日本家屋」である。戦前か戦後か分からないけれど昭和初期の建物で間違いなさそうだった。 玄関は土間だし、風呂は薪で沸かす五右衛門風呂だった。網戸みたいな便利なものはなかったし、縁側のサッシは木製でガラスを固定してるのはゴム製の樹脂ではなく、漆喰みたいな白い何かだった。鍵にいたってはねじ締り錠だった。雨戸は木製で開け閉めするたびに棘が手に刺さった。戸袋に雨戸をしまうのは小さい子供にはなかなかの難作業であった。 これだけ聞くとボロ屋のように思えるが、さにあらず。部屋数は多く、使ってはいなかったが囲炉裏もあり、トイレは三つ。和式、男子小用の朝顔便器、二階には洋式。電話も二台あった。庭には松や紫陽花や紅葉やシュロが植わっており、裏庭には桑や梅の木があった。そうそう、封鎖されていたが井戸もあった。 そして、なんといってもこの家には「離れ」が存在しそちらは昭和五十年前後に建てられた洋風の新築の家になっており、子供の目にもひと目でいいものだと分かる、ホテルにおいてありそうなモスグリーンの豪華なベッドとガス給湯のひのき風呂が付いていた。 これを聞けば、まるでお金持ちの家じゃないか、と思うことであろう。事実お金持ちの家に住んでいたのである。ただし、僕の家はお金持ちではなかった。錆田一家は「 山下さん 」の家に住んでいたのだ。 先ほど二台電話があると書いた(離れも入れると本当は三台)が、片方の電話は錆田家の電話で、もう一方の電話は「 山下さん 」の電話だった。幼かった自分には 山下さん が何者か分からなかったけれども、もう一方の電話に出るときは「 山下 です」と応答するように躾けられた。そして、同時に離れの新しいほうの家には足をあまり踏み入れないようにも言われた。 幼い子供というのはあるがままに世界を受け入れるので、長じるまで特にこの家に疑問を持たなかった。何せ庭が広くて、蟻もトカゲもだんごむしもカタツムリもマムシもいれば、近所の猫も遊びに来るし、縁の下の砂の下には蟻地獄や地蜘蛛もいて生き物の観察がし放題。梅雨が明ければ梅の実で梅ジュースが...

平成化石8 上野の焼肉屋さん編

これは2000年代の話でもう時効を迎えている。 当時、ぼくは、ふくよかな友人とよく焼肉に行っていた。ただ肉を焼くだけだが食べ慣れると違いがわかるようになってくる。寿司もそうだけどシンプルなものほど舌が肥えるとワガママになっていくものだ。 ネットや雑誌で評判の店はいろいろと行ったけど、やはり有名なところは良い店が多かった。でも評判が良くてもイマイチなところもあって焼肉屋の評判にはあやふやなところも多かった。 それなら自分たちの足で探そうということになった。でもこの広い東京でランダムに焼肉屋に入ったところで隠れた名店に出会える可能性は低い。 そこで焼肉と言ったらコリアンタウンだろうということになって上野の韓国人街に行くことになった。 上野駅のすぐ近くにある一角にパチンコメーカーと焼肉屋やだらけの場所がある。すぐにそこが目当ての場所だとわかった。 その中で古く建物でいかにも老舗っぽい店に入った。そこの店は席数も少なく老夫婦のみで店を回しているこじんまりとした店だったが繁盛していて客でいっぱいだった。 奥の座敷席に座ってビールと2、3品肉を注文してから店を見渡すと焼肉用の丸いコンロが真ん中についた机も煙対策の排風機もなく店は煙で前はなにも見えなかった。 かなり古いタイプの肉を乗せて焼くだけの焼肉用のコンロがあって地元の常連さんがやってるのを見よう見まねで肉を焼いてみると味は狙い通り名店と同レベルだった。 友人と2人で隠れた名店を見つけた喜びを共有しながら肉を焼き続け酒を飲んだ。瓶ビールが何本か空になったところでどうせならマッ◯リでも飲もうかということになった。 しかしメニュー表のどこを見てもマッコリなんて文字はない。はて、焼肉屋でしかもコリアンタウンである。マ◯コリがないなんてことはあるのだろうか。 煙りの向こうをよくよく見るとハゲあがった常連らしきおじさんが白い液体を呑んでいるではないか。この店の裏メニューらしい。 ぼくはダメ元で店の店主にマッ◯リを注文してみた。常連にしか出さないものなのかと思いきや、あっさりと出てきた。 しかし、店主が冷蔵庫から出してぼくらの目の前に置いたそれはスーパーで見かけるものとは大きく違っていた。お茶が入っていたであろう2リットルのペットボトルに白いカルピスみたいな液体が詰まっているのだ。 ...

平成化石7 歌舞伎町のビデオ屋さん編

2000年代中頃の話。 大学に入ったばかりで東京の盛り場への知識もあまりなかったころだった。ぼくは当時の友人宅に遊びに行った。廊下を歩くたびにミシミシ音がなる古い木造アパートで、古い木造住宅独特の臭いが充満した。彼の部屋は四畳半でただでさえ狭いのに物が散乱していて足の踏み場もなかった。 湿った座布団にぼくは座り友人は万年床の布団の上にあぐらをかいた。当時まだ発売されたばかりだった氷結を2人で飲みながら、押入れから出してきた彼の秘密のコレクションを見せてもらった。 それは裏のDVDであった。ネットですらYouTubeがやっと出てきたくらいの時代である。当然その手の動画サイトはそこまで充実しておらず、その手のものはまだDVDが主流だった。 しかし当時のぼくにとって裏のものは週刊誌の噂でしか聞いたことのない都市伝説みたいな存在だった。彼のコレクションはそのどれもが当時の人気セクシー女優や若い世代のもので驚きのあまり腰を抜かしそうになった。 その入手先を訪ねると新宿の歌舞伎町なのだと言う。簡単に買えるからなんならいまから行かないかと彼は言った。しかも彼の家から歩いていけるらしい。 確かに大学近くの彼の家は住所が新宿区であった。でも彼の家の周りは静かな住宅街という感じでまだ土地勘もなかったぼくにとってあのテレビでしかみたことがない本当に歌舞伎町へ歩いていけるのか半信半疑だった。 慣れた足取りで明治通りを南下する彼をただ子犬のように後ろからついて行くしか出来なかった。薄暗い住宅街は気がつくと眠らない街不夜城歌舞伎町の眩しいネオンに変わっていた。 客引きもいまより強引で酔っ払いも強面の人もいまよりはるかに多かった。その間を友人は気にすることもなく横切って進んでいった。 彼は小さな雑居ビルに入って、そこの階段を登った。2階の曇りガラスが貼られたドアの前で立ち止まり、ここだよと言った。 その店には看板も何もなくて入ることに躊躇していると中からサラリーマンが手に袋を持って出てきた。中を覗くとファイルをペラペラめくる客が何人か見えた。 中に入ると友人は常連らしく店長から声をかえられた。壁にはセクシーなビデオのパッケージを印刷したものが隙間なく貼られていた。 店長は40歳くらいの痩せ型で爽やかで人の良さそうな男性だった。彼からファイルを手渡さ...

ラーメン大好き錆鉄さん

好きな ラーメン は秋葉原の青島食堂のしょうゆ ラーメン 、好きなインスタント ラーメン はサッポロ一番みそ ラーメン の錆田鉄男でございます。 ここ半月ほど、ブログを書いていなかったけれど 日陰くんの ラーメン 話 を読んでいたら ラーメン について書きたくなってきたので書く。いつだって ラーメン は力を与えてくれる。 時代は昭和、日曜日、朝。テレビには「新婚さんいらっしゃい」や「パネルクイズアタック25」が映っていた。子供向け特撮番組やアニメが終わった後の、子供にはなんとも退屈な時間帯であった。が、平日仕事でテレビを見られない父親は楽しそうに桂三枝がシモネタを新婚夫婦にぶつけているのを観ていた。僕はまだ子供だったのでシモネタが分からず、日曜の午前中はだいたい退屈な記憶しか残っていない。 「笑っていいとも増刊号」で父親が平日の「いいとも」のおさらいを終える頃、ちょうどお昼の時間になる。そして片手鍋を手にした父親が「 ラーメン 食べる?」と僕に聞くのだ。 錆田家に買い置きしてあるインスタント ラーメン は基本サッポロ一番みそ ラーメン かサッポロ一番塩 ラーメン しかなかった。長年そんな環境で育ったためサッポロ一番シリーズに「しょうゆ味」があるという意識が全くなかった。テレビCMなどで目にしているはずだったのだが。 長じてから、なぜ我が家はみそ味と塩味しかなかったのか父に聞いてみたところ「 ラーメン のスープは白いのが普通で黒いのはなんだか気持ち悪いよ」と語った。九州出身の父は ラーメン といえば白いとんこつスープが普通で、上京してきてもしばらくは気味が悪くてしょうゆ ラーメン は食べられなかったそうだ。同じような色をした汁のかけ蕎麦は普通に食べていたと思うが、あれは気持ち悪くなかったのだろうか。不思議である。 こんな環境なので明星チャルメラやチキン ラーメン が食卓に上がることはめったになかった。 インスタント ラーメン 以外の ラーメン と言えば、逗子市民御用達のスーパーマーケット・キングストアの二階にある「ひなまつり」か横浜高島屋の「レストランローズ」か、いずれにせよ特別なときにしか食べられなかった。どちらも味はシンプルなしょうゆ味であった。僕のしょうゆ ラーメン への憧憬はここに端を発しているのだと、今にして思う。ここまでは昭和の...

平成化石6 ラーメン編

松井秀喜が5打席連続敬遠された甲子園の試合を近所ラーメン屋のテレビで観たのを覚えている。 その日は母親が不在で夏休みだったぼくは父親に連れられてラーメン屋にいた。当時のラーメン屋はまだ古いタイプの中華料理屋みたいなものでメニューには餃子やチャーハンもあった。店内は油っぽく内装は汚かった。だけど今よりもゆったりとしていてしばらく野球を観せてくれるだけの余裕があった。 当時は出前も一般的で親戚が家に来たときなんかはラーメン屋から出前をよく取っていた。 味はあっさりとした醤油ラーメンが一般的で他には味噌くらいしかなかったと思う。はたしてブタメンより先に本物の豚骨ラーメンを食べたことがあったか自分の記憶が定かではない。   平成のはじめころのラーメンはただのファーストフードだったし味もシンプルだった。スーパーの生麺とそこまで大差なかったと思う。せいぜい具がたくさんあるくらいなもので。 90年代半ば以降にラーメンがロマンとして語られるようになっていった。朝四時から仕込みをするとか10時間煮込んだスープとかスープの出来が悪い日は店を開けないだとか、ラーメン屋の店主のこだわりや頑固さが持て囃されるようになった。ラーメンはファーストフードから美食になっていった。 90年代後半にもなるとラーメンも多種多様になっていった。豚骨ラーメンの店も当たり前のように街に並ぶようになった。そのころになるとラーメン番組もさらにロマンで語るようになった。素材はこだわりの逸品で地鶏だの幻の醤油だの店主が全国各地を渡り歩きながら厳選するらしい。よくよく考えたらそんな良いもの使うなら値段に反映されるはずだがラーメンは相変わらず700円程度だった。 2000年代はつけ麺や油そばなどラーメンの亜種も産まれた。一風堂や天下一品などかつて並んだ店はチェーン店化してどこの街にもあるようになった。神奈川にしか無かった家系ラーメンはいまや全国どこにでもある。ネットの普及で情報源がテレビや雑誌から食べログになった。 子供のころ行った汚いラーメン屋はどうなったのか。幼いころの記憶を頼りにその場所に行ってみた。実家の裏手にあって汚い店構えに薄汚れた暖簾とやたら音の出る引戸が懐かしくなった。 その場所はいま駐車場になっていた。あの店の味は未だに記憶のなかにある。故郷のソウルフードであるサン...

平成化石5 トンデモ編

小学生のころ放課後に「こっくりさん」をやった。50音のひらがなとYES NOが書かれた紙に10円玉を乗せて、その上に複数人数の人差し指を一本づつ添える。そして「こっくりさん、こっくりさん」と唱えながら質問をすると、こっくりさんが10円玉で文字をなぞることで、なんでも質問に答えてくれる降霊術のひとつだ。 これは言ってみれば集団の忖度であって本当に勝手に動いたわけではない。みんな意図的に動かしているのだが、 その場は勝手に動いたことにしなければならない。そしてしばしば恣意的な答えによって「◯◯が好きなのは◯◯ちゃん」とか根も葉もない噂が生まれるのだった。 こんな風に平成の初めはオカルトが蔓延した時代だった。95年のオウム事件を契機をそれ以後は逆にオカルトを排除する時代に変わった。 オウム事件以前のテレビではよく超能力の特集がやっていて超能力を鍛えるEPSカードなんてものもあった。スプーン曲げなんかみんな一度は経験しているはずだ。 時代は20世紀の終わりを迎えようとしていた。世紀末は終末思想が流行するもので、その代表格がノストラダムスの大予言だろう。その謎めいた暗号のような詩文で書かれた予言を解読すると1999年7月に人類は絶滅するくらいのインパクトのある出来事が起こるという。それは曖昧で人類は絶滅するのかしないのか、それは戦争なのか災害なのかはたまた宇宙人の侵略なのか。解釈はバラバラであった。解読が難しいということはテレビ番組を作る側にとっては好都合だったようで頻繁に特番が組まれ毎回違う解釈がされた。 視聴者としては毎回違う方面から脅されるのだからかなりしんどい。そして終末論はそれだけではなくファティマの第3の予言だとマヤ文明の人類滅亡の予言など、終末論で溢れかえっていた。 小学生だったぼくも1999年までしか生きられないのかと本気で悩んだこともある。同級生ともよくそんな話をしながら放課後を過ごした。 しかしそんな空気はオウム事件が全てを変えてしまった。オウム事件以後、オカルト番組はオカルト検証番組に変わり、超能力者を糾弾し、宇宙人を信じる人を嘲笑し、ノストラダムスは予言者じゃなくてただの悪文クソ詩人ということになった。 1999年7月は恐怖ではなくオカルト信奉者が公開処刑される日となった。そのころまでにはノストラダムスを本気で信じる者な...

平成化石4 終電後編

子供のころテレビで観る大人は終電逃したあとサウナに泊まっていた。まだ世の中のことが分からないぼくは暑い部屋で寝るなんて大変だなとか思っていた。 だけど成人したぼくが終電無くしたときにお世話になったのはネットカフェだった。サウナより格安でドリンクバーがついていて食べ物も安い。 このビジネスの形態も最初は漫画喫茶から始まった。漫画喫茶と言ってもいまのイメージとは違って24時間営業するわけでもなく個人スペースがついてあるわけでもない本当に漫画が置いてある喫茶店だった。 ぼくが最初に終電逃したときは24時間営業も始まっていて深夜に入店すると同じように終電逃した人たちで溢れていた。 でも当時はまだ漫画が読める喫茶店にネットが出来るPCがある程度のものでインテリアは喫茶店だが雰囲気は図書館みたいにシーンとしていた。終電逃した人用に狭い仮眠スペースみたいな暗い部屋があってリクライニングチェアの背を倒して仮眠を取っていた。 しばらくして机に仕切りが出来て個人スペースっぽくなっていって最終的に完全に間仕切りで区切られたPCとリクライニングチェアだけの擬似個室みたいな形になった。漫画は大量に置いてある本棚から個室に持ってきて読む。始発までいままで読めてなかった人気作品をよく読んでいた。 10年くらい前からこのスタイルが一気に広まったおかげでネットカフェのPC使って犯罪予告するやつが出たりネットカフェに住む生活困難者が出たり社会問題も産まれた。 いまではシャワーがあるのは当然として住民票に登録出来たり届け物の送り先になれたりもはやドヤに近いものになっている。 ネットカフェより少し上のサービスとしてビデオボックスもある。元はと言えばビデオを借りて個室で鑑賞出来るサービスだったのだが、ネットカフェより少し高いくらいの値段で朝までいられるから終電逃したときに便利だ。 ビデオボックスではふかふかのフラットシートが敷いてあったりしてブランケットが借りられたりで足伸ばして寝ることが可能だ。やっぱりシャワーもついているし、住んでる人はいなさそうだから雰囲気も良い。 逆に繁華街で24時間営業してる居酒屋や喫茶店の始発前は地獄絵図のようだ。深夜なのに混んでるし、大抵の客が寝ているし、もう他でたらふく飲み食いしてきたのでろくに注文もしない。そしてやたら声が大きくなる。...

平成化石3 昔のお母さん編

ぼくらの子供のころ友達の母親を呼ぶときは「おばさん」だった。いまは「◯◯ちゃんのママ」みたいに呼ぶのかな?よくわからないけど。 しかしいまのお母さん達はみんな綺麗でおばさんというやりお姉さんと呼ぶに相応しい。もちろんここでいう「おばさん」は「小母さん」であり子供からみて大人の女性一般を指す言葉であるから間違いではない。 しかしぼくらの子供のころにいた「友達のお母さん」は間違いなく「オバちゃん」だった。小太りで化粧もしないで頭は適当な髪型でろくに白髪も染めてなくて40くらいでも明らかにオバちゃんだった。 いまよりもずっと老けていたと思う。いまなら50過ぎでも綺麗なままの人もいるけど当時の50はもう老人だった。 そのなかで珍しくやたら若いお母さんも現れた。死語であるがヤンママってことばがあってヤンママのヤンはヤンキーなのかヤングなのかわからないが不良少女がやたら幼い年齢で子供産んでしまうケースだ。 ぼくの同級生でもそんな家が何軒かあって授業参観のときなんか茶髪で派手な化粧したヤンママのお母さんはわりと目立っていた。たぶん25もいってなかったと思う。 そんなお母さんでもやはりオバちゃんだった。肌は荒れてて化粧も雑だった。シングルマザーってわけではないのに何か苦労が感じられた。子供への対応も荒く言葉遣いも汚かった。 ある日ヤンママを持つ同級生の子がスト2で負けたキャラみたいに顔を腫らしてきたことがあった。心配して何があったか聴いても「転んだ」としか答えない。しかし転んだって言ってもそんな顔の腫らしかたはしないだろう。 いまなら学校が即、児童相談所に通報する案件だが当時は虐待なんて言葉すら一般的ではなく、学校も見て見ぬ振りをしていた。 いまのお母さんを見てると子供に対して本当に優しいと思う。昔は子供が泣いていると子供の泣き声を超える声で怒鳴りつけていた。デパートではよく子供の泣き声が響いた。体罰なんて当然で子供が泣いているのに叱らない親のほうがむしろ顰蹙を受けた。 いまと違って90%以上が結婚する世の中で精神的に未成熟な親が多かったと思う。昔の笑うセールスマンみても分かる通り昔の家庭は非常に仲が悪かった。 話を戻すとヤンママの子供たち、ヤンキーチルドレンたちの多くがその後ヤンキーになった。中学生の夏休みが明けるとヤンキー化するのがよ...

嬉しいことと悲しいこと

どうも、日々引きこもり気味で 悲喜 交々の錆田鉄男です。 人生において最も 嬉しい ことは何だろうと考えたとき、僕ならば「できなかったことができるようになること」と答える。逆に最も 悲しい ことは「できたことができなくなること」となる。 子供のときはできなかったことが多かったけれどその分できることが成長と共にどんどん増えたので 嬉しかった ことが多かった気がする。自転車に乗れるようになったこともその一つだ。自転車に乗るコツを掴んだときのことをよく覚えている。小学一年生の時だ。これは 嬉しかった 。 母親による自転車の指導は良くなかった。練習場所は家の前の道路。自転車の後部を大人が掴んで、ある程度スピードが出てきたら手を離す、というよくある練習法だ。ちょっとした坂道で手を離して自走させたりするのでバランス感覚を掴む前に転んでしまい膝や脛を擦りむき、随分痛い思いをした。 父親は優秀な自転車講師だった。練習場所は公園の平らな石畳の上。母親の指導とは逆に止まった状態からスタートする。自転車にまたがり片足をペダルに置く。そしてもう片方の足に力をこめて一歩を踏み出す。父親は軽く自転車の車体に手を添えるだけ。これだけで僕はすぐにバランス感覚を掴んだ。転倒の恐怖心を和らげつつ、最初の一歩を息子のペースで掴み取らせるように父は見守った。 自転車に乗れるようになったおかげで行動範囲が半径一kmから市内全域に広がった。自宅から遠い友達の家にも、プラモデル屋にも、駄菓子屋にも行けるようになった。 僕らは法律で制限されたり、年齢で制限されたり、資格で制限されたり、身体能力で制限されたり、色々制限されている。こうした制限を解除していき世界を広げることは 喜び の源泉となりうるのだ。 アルコールについては二十歳の時に法律の制限が解除されたが、コップ一杯のビールで吐くような下戸なので身体的に制限を受け続けている。若い頃は「酒を野飲めない人間は人生を半分損している」なんて言う酔っ払い共を憎悪したものだが、酔っ払うことで広がる世界もあるのだからそれもそうだな、と今では素直にそれを認めている。 タバコについては好奇心がそそられなかった。父が喫煙者でその口臭が耐えがたかったのと、小さい頃父に連れて行かれたパチンコ屋において全身でたっぷり副流煙を吸ったのでもう十分だったからだ...

平成化石2 駄菓子屋編

今日新元号が決まった。11:40ころ発表になった新しい年号は「令和」だった。決まったあとテレビを消して寝転がりながら頭に浮かんだのは平成の終わりについてだった。じわじわと平成が終わってしまうことのリアリティが全身をゆっくり回っていった。 新元号が決まるまでの数ヶ月間でまことしやかに語られていた噂では安倍政権に忖度して「安」の文字を入れるのではないかということだ。しかも「安久」になるとか勝手な噂が飛び交って左巻きの人達が見えない敵と戦っていた。 しかし結果は「安」の文字はなかった。それどころか何の忖度もなく愛国的な内容でもなかった。安倍政権は長期政権(主に野党の失策によって)であり、なぜか強権的なイメージがついてしまっている。それは政権側にも問題があるのだがそんな平成最後の空気感をこのブログを化石として発見してくれるひとにはメモとして残しておきたい。 ここまでは落語でいう枕みたいなものでこれからが本編。 ぼくは小学生のころよく駄菓子屋に通った。平成の子供たちにとっても昭和と同じく駄菓子屋は憩いの場であった。 昭和との大きな違いを挙げるならば平成の子供たちは飽食の時代を生きているだけあってそこまで駄菓子を美味しいものとは考えていなかった。そもそもお菓子ならコンビニで買えば良い。 それでも足繁く駄菓子屋に通った。その場所自体が子供たちにとって街のオープンスペースというか古代ギリシアのアゴラみたいな存在になっていたというのはあるだろう。 駄菓子屋と言っても子供たちが集まる中心は駄菓子ではなくアーケードゲームの筐体であった。いまとは違い当時ゲームセンターは大変デンジャラスなところだった。不良の溜まり場であって小学生なんて来ようものならヤンキー中高生の恰好の餌食となる。目があっただとかの因縁をつけられて有り金全部奪われてしまう。 そんな小学生が唯一安心して最新のゲームが出来る場所が駄菓子屋だった。ストリートファイターⅡの登場から時代は格闘ゲーム全盛であった。駄菓子屋でありゲームセンターではないのだから筐体は2台か多くても5台くらいしかなくてみんな列を作りながらやっていた。 ぼくの親はお小遣いをほとんどくれない人だったので実際にプレイはあまり出来なかったが、友人達が代わる代わるプレイしているのを見るだけでも楽しかった。違うクラスや学年の子たちと...