平成化石2 駄菓子屋編

今日新元号が決まった。11:40ころ発表になった新しい年号は「令和」だった。決まったあとテレビを消して寝転がりながら頭に浮かんだのは平成の終わりについてだった。じわじわと平成が終わってしまうことのリアリティが全身をゆっくり回っていった。


新元号が決まるまでの数ヶ月間でまことしやかに語られていた噂では安倍政権に忖度して「安」の文字を入れるのではないかということだ。しかも「安久」になるとか勝手な噂が飛び交って左巻きの人達が見えない敵と戦っていた。


しかし結果は「安」の文字はなかった。それどころか何の忖度もなく愛国的な内容でもなかった。安倍政権は長期政権(主に野党の失策によって)であり、なぜか強権的なイメージがついてしまっている。それは政権側にも問題があるのだがそんな平成最後の空気感をこのブログを化石として発見してくれるひとにはメモとして残しておきたい。


ここまでは落語でいう枕みたいなものでこれからが本編。


ぼくは小学生のころよく駄菓子屋に通った。平成の子供たちにとっても昭和と同じく駄菓子屋は憩いの場であった。


昭和との大きな違いを挙げるならば平成の子供たちは飽食の時代を生きているだけあってそこまで駄菓子を美味しいものとは考えていなかった。そもそもお菓子ならコンビニで買えば良い。


それでも足繁く駄菓子屋に通った。その場所自体が子供たちにとって街のオープンスペースというか古代ギリシアのアゴラみたいな存在になっていたというのはあるだろう。


駄菓子屋と言っても子供たちが集まる中心は駄菓子ではなくアーケードゲームの筐体であった。いまとは違い当時ゲームセンターは大変デンジャラスなところだった。不良の溜まり場であって小学生なんて来ようものならヤンキー中高生の恰好の餌食となる。目があっただとかの因縁をつけられて有り金全部奪われてしまう。


そんな小学生が唯一安心して最新のゲームが出来る場所が駄菓子屋だった。ストリートファイターⅡの登場から時代は格闘ゲーム全盛であった。駄菓子屋でありゲームセンターではないのだから筐体は2台か多くても5台くらいしかなくてみんな列を作りながらやっていた。


ぼくの親はお小遣いをほとんどくれない人だったので実際にプレイはあまり出来なかったが、友人達が代わる代わるプレイしているのを見るだけでも楽しかった。違うクラスや学年の子たちともゲームを介して仲良くなることが出来た。


ゲームが終わってゲームについて語りながら駄菓子を食べるのが当時の小学生には最高の幸せだった。その時代に1番衝撃的だったのはブタメンの発売だ。それまで似たような小型カップ麺はあったがベビースターラーメンをふやかした感じでたいして美味しくはなかった。ブタメンはそんな常識を打ち破る旨さだった。


ぼくの行きつけの駄菓子屋では行けば、1人くらいは必ずブタメンをすすっていた。店頭に座っているおばあちゃんにブタメンを注文するとブタメンの蓋を開けて電気ポットからお湯を注いでくれた。


お湯入れたばかりの友達を見つけるとよく悪ふざけに身体を揺らしたりしてお湯が手に溢れそうになるのをみんなはゲラゲラ笑いながら見ていた。


ぼくの家は駄菓子屋の近くだったから最後までいるのは、ぼくだった。家の遠い子からひとりひとりといなくなっていって夕陽も落ちて暗い駄菓子屋の中でプレイする人もいなくなりずっとオープニングの映像が流れ続けてる格闘ゲームの画面をなぜかずっとひとりで眺めていた。ゲームのストーリーが面白くて全く飽きなかった。遠くで車のクラクションが鳴ったり大きな音で、はっと我に返り周りの暗さに気付くとき、ぼくは帰路に着くのだった。



コメント

  1. 僕の住んでいた町では小学生の頃に風紀上好ましくないゲーセンは潰れて、ゲーム屋やおもちゃ屋にアーケード筐体が設置してあってそこが子供たちの社交場だったよ。中高生の頃は格闘ゲーム黄金期だったけれど、お小遣いそんなにないから友達の家に行って家庭用ゲーム機で遊ぶようになったね。

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    1. そういえばうちの街にゲームショップなかった。外は格ゲー、家ではRPGみたいに棲み分けてたかな。

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