僕が昔住んでいた家の所有者の山下さんはそこらへんの山下さんじゃなかった話

となりのトトロを観ると昔住んでいた家を思い出して懐かしい気分になる錆田鉄男です。


僕は神奈川県の逗子という町の海の近くで育った。そして、小学校低学年まで住んでいたその家は少し変わっていた。特徴を一言で言うと「ものすごく古い日本家屋」である。戦前か戦後か分からないけれど昭和初期の建物で間違いなさそうだった。

玄関は土間だし、風呂は薪で沸かす五右衛門風呂だった。網戸みたいな便利なものはなかったし、縁側のサッシは木製でガラスを固定してるのはゴム製の樹脂ではなく、漆喰みたいな白い何かだった。鍵にいたってはねじ締り錠だった。雨戸は木製で開け閉めするたびに棘が手に刺さった。戸袋に雨戸をしまうのは小さい子供にはなかなかの難作業であった。

これだけ聞くとボロ屋のように思えるが、さにあらず。部屋数は多く、使ってはいなかったが囲炉裏もあり、トイレは三つ。和式、男子小用の朝顔便器、二階には洋式。電話も二台あった。庭には松や紫陽花や紅葉やシュロが植わっており、裏庭には桑や梅の木があった。そうそう、封鎖されていたが井戸もあった。

そして、なんといってもこの家には「離れ」が存在しそちらは昭和五十年前後に建てられた洋風の新築の家になっており、子供の目にもひと目でいいものだと分かる、ホテルにおいてありそうなモスグリーンの豪華なベッドとガス給湯のひのき風呂が付いていた。

これを聞けば、まるでお金持ちの家じゃないか、と思うことであろう。事実お金持ちの家に住んでいたのである。ただし、僕の家はお金持ちではなかった。錆田一家は「山下さん」の家に住んでいたのだ。

先ほど二台電話があると書いた(離れも入れると本当は三台)が、片方の電話は錆田家の電話で、もう一方の電話は「山下さん」の電話だった。幼かった自分には山下さんが何者か分からなかったけれども、もう一方の電話に出るときは「山下です」と応答するように躾けられた。そして、同時に離れの新しいほうの家には足をあまり踏み入れないようにも言われた。

幼い子供というのはあるがままに世界を受け入れるので、長じるまで特にこの家に疑問を持たなかった。何せ庭が広くて、蟻もトカゲもだんごむしもカタツムリもマムシもいれば、近所の猫も遊びに来るし、縁の下の砂の下には蟻地獄や地蜘蛛もいて生き物の観察がし放題。梅雨が明ければ梅の実で梅ジュースが飲めるし、木だらけの庭なので秋になれば落ち葉で焚き火がやり放題。クーラーなんかなかったけれども隙間風だらけの昔の日本家屋は窓さえ開けておけば涼しかった。

で、山下さんとは何者だったのか。なんとなく大家さんなのかな、と思っていたのだけれど、親に聞いてみたら、想像と違う答えが返ってきた。「有名な建築家」であると。なんでも霞ヶ関ビルの設計者らしい。建築に興味のない僕でも日本最初の超高層ビルであるということは知っており、そんな「超高層のあけぼの」みたいな人と自分に関わりがあったなんて思いもしなかった。

山下さん山下設計を設立した山下寿郎さんだったのである。

そして僕が育った家は昔、山下さんが住んでいた家で、後に別荘となっていた家だったのだ。モダンな洋風建築が古い日本家屋と合体していた構造もきっとのちのち避暑などに利用するために増築したからなのだろう。実際、僕が小さかった頃は逗子という町は海が近いこともあって、別荘や大企業の保養所がたくさんあって避暑地としてわりと人気があったのだ。

別荘の管理というのは時に頭の痛い問題があって浮浪者が勝手に住み込んでしまったり、手入れのされない草木が隣近所に迷惑を掛けてしまったりする。実際山下さんの別荘にも、誰もいないのに夜中に明かりがついていたり、誰かが侵入して近所の人が警察に通報したり、色々あったのであった。

そこで、山下さんと仕事をしている工務店の知り合いの鳶職人の知り合いであった父親が「別荘の管理人」として山下さんの家に住むことになったのである。錆田家は店子ではなく、管理人一家だったのである。

古いとは言え、5LDK相当の昭和の庭付き邸宅に、お金を払うどころかいくらか管理費を頂いて住んでいたのである。今にして思えば、休日の父親は庭の草むしりや落ち葉掃除をやけに熱心に行っていたし、母親はほぼ使われることのない離れのベッドルームをしょっちゅう掃除し丁寧にベッドメイキングしていた。管理費に見合う分はきちんと働いていたのだった。

時々山下さんが別荘の様子を見に来たらしい。僕が物心付く頃には山下さんは亡くなってしまったので残念ながら会った記憶はないが、両親にその人柄を聞くと「人格者」の一言に尽きるらしい。建築家として成功し、国からも何度か叙勲され、大学で教鞭をとり、大変偉い人であるが嫌味なところは一切なく人に親切で鷹揚で好々爺といった感じの人だったらしい。山下さんは僕の四歳年上の兄に「おじいちゃんみたいに長生きするんですよー」と声をかけて頭を撫でてくれたらしい。

子供としては面白い家で良かったが、生活者として考えると両親は苦労しただろう。なんせ会社から帰ってきたら風呂を沸かすために薪をくべなければいけないし、秋になれば庭の草木がいっせいに葉を散らし地面を埋め尽くすので、広い庭から落ち葉をかき集めこれまた焚き火にくべなくてはならない。

炭鉱町のぼた山よろしく、我が家の裏庭には灰の山が築かれていた。そこでは落ち葉以外にも芋を焼いたり、いらなくなった学校のプリントを焼いたり、ミミズを焼いたり、色々焼いた。発泡スチロールは焼くと燃えながら溶け落ちて面白かった。学校教育に「火」の授業を組み入れたほうがいいと思う。火を使いこなしてこそ人間なんじゃないかと僕のDNAに刻み込まれた原始の記憶がささやくのよ。


映画「となりのトトロ」も和洋が合体した昭和の家が舞台だった。自分もまさにそんな家に住んでいたし、まっくろくろすけと同居していた。

この映画には草壁親子が五右衛門風呂に入るシーンがある。今の感覚から行くと小学校六年生の女の子と父親が一緒に風呂に入るってどうよ? と思う人もいるかもしれないが、五右衛門風呂の危険性を知っている僕はサツキちゃんのお父さん(CV.糸井重里)はちゃんとした人だと思う。

五右衛門風呂は直火で湯を沸かす釜であるので底が火傷するほど熱い。なので底板という板を敷いて風呂に入る。敷くといっても板であるので当然お湯に浮いてしまう。湯に漬かるには板を沈めるのに十分な体重が必要で、小さな子供の体重では板の浮力に勝てず、ともすると板がひっくり返って湯船でおぼれる危険もある。ゆえに子供の入浴に際しては大人という文鎮が必要である。自分も体重が少ない頃は「板乗り」をしくじって何度か危ない目にあったのを覚えている。

我が家の五右衛門風呂は最終的にガス釜に連結し魔改造され、両親は風呂焚きから開放され、僕は安全に入浴できるようになった。先日実家に帰った際、当時の話を父から聞きだしたときに山下さんが時々「これ燃料代わりに燃やして」と不要な設計図や資料を渡され、薪と一緒に火にくべていたそうだ。コンペに負けていらなくなった設計図だったのかな、とか想像してしまう。世界広しとは言えども錆田家のように有名建築家の設計図で沸かした風呂に入っていた人はそうはいるまい。

風呂と言えば時々五右衛門風呂じゃなくて、離れのひのき風呂に漬からせてもらうこともあった。ひのき風呂は湿気過ぎるとカビてしまうし、乾きすぎると木の継ぎ目に隙間が開き水が漏れてしまうらしく、時々湯を張らなくてはならないのだった。人が使わないと設備は痛むのだ。

僕の住んでいた逗子の家は匂いにあふれていた。いつも薪や紙や落ち葉を燃やした煙の匂いがした。今も焚き火が好きなのはあの家で育ったからだろう。ひのき風呂の価値をよく知らない子供であったけれど、すごくいい匂いで好きだった。プーアル茶を飲めばあの家のほこりっぽくてかび臭い物置部屋を思い出して懐かしい気分になる。

コメント

  1. まじか。はじめてしった。建築家の無精卵としてはめっちゃ生家の図面見てみたいわ。

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    1. 洋風の建物の方は二階建てなんだけれど、一階は全部物置だったと思う。あんまり物は置いてなかったけれど、ボートなんかが置いてあった気がする。海の近くの別荘って感じだね。三十年ほど前に取り壊して現物をみることはもうかなわないけれど。設計図はどこかに残っていたりするのかな。

      そう言えば近所に美味しんぼの原作者の雁屋哲さんも住んでいたらしいよ。

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  2. たまに読ませていただいてる一読者です。

    母方の実家が逗子で、子供のころよく遊びに行きましたが、ひょんなことから縁遠くなり、だいぶご無沙汰してました。

    これを読んでふと逗子を訪ねたくなり、先ほど久々に祖母に連絡をとりました。GW中に訪ねる予定です。

    とりあえず、きっかけを与えてくれた二人のブログに感謝します。ありがとうございます

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    1. コメントありがとうございます。ブログ書いてよかったです。
      逗子でのゴールデンウィークはいかがでしたか。
      年々侵食されて小さくなっていく逗子海岸の砂浜が心配なんですよね。
      取り立てて何もない町ですけど、文豪や有名人のゆかりの地だったりするので、年配の方ならそうした人たちの逗子にまつわる面白い話も知ってらっしゃるかもしれませんね。

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