平成化石9 最終回

もう平成も本当に残りわずかとなった。最近は忙しくてブログの更新頻度も落ちてきた。もしかすると今回がこの平成シリーズのラストになるかもしれない。平成シリーズのラストとして書きたいことを今回書いて一応の最終回にしようと思う。(またこのシリーズの続きを書くとしても"裏面"として書いていきたい)


ぼくの祖父はギリギリ明治産まれだった。祖父も父も高齢で子供が出来たのでぼくと祖父の年齢差は80近くあったはずだ。


前述した通り、祖父は平成3年になくなるまでの数年は一緒に住んでいた。祖父は脳溢血の後遺症でほとんど寝たきりだったが頭はずっとクリアなままで、幼かったぼくとも良く会話をしていて古い幼いときの記憶なのによく覚えている。


祖父が見た明治大正昭和の話は平成を生きるぼくにとって刺激的なものだった。祖父の家は金持ちで何不自由なく暮らしていたが実母が亡くなり新しくきた継母に子供が出来ると父親(つまり曽祖父)に邪険に扱われて大学の学費も出してもらえなかったから家出して大物政治家の書生になって居候しながら大学に通ったそうだ。大学時代はマルクスを読んで共産主義にハマり当局に目をつけられていたそうだ。


神田のカビ臭い古本屋にある埃かぶった岩波文庫の小説みたいな話だ。決して下宿先の娘が祖母だとかいうオチではない。


大学を卒業し転向を果たした祖父は、官僚となって戦時中もなんの苦労もしたかったが戦争も末期になると転勤という名の疎開をしてしまったがために出世コースから外れてのんびりと地方を転々として隠居後は当時は金持ちのブランドだった逗子で過ごした。


鉄男くんの生家が山下寿朗の別荘だったのもいまでは考えられないくらい逗子にブランド価値があったからだろう。ここまで平成シリーズなのに随分と平成以前のことが多くなってしまった。


最後の数年間の祖父との会話はこの平成の化石を作るというこのシリーズの元ネタのひとつだったりする。いつか誰かが発見してくれたときにぼくが祖父の話に感じた好奇心を未来に生きる誰かに感じて欲しい。


子供のころはみんなちょんまげ生やしていたの?とぼくは祖父に聞いたことがある。祖父は笑っていた。幼いぼくにとってはかなり真剣な質問だったのだけど。でも、ぼくも昭和の終わりに産まれているのだから令和のつぎの年号で産まれてくる子供には同じ質問をされることになるのかもしれない。その時代の子供からするとネットがない時代に産まれた人間など原始人も同じだろう。移動は馬で東京は江戸だったって言えば本気で信じてしまうかもしれない。


もう未来人になってしまった人たちには待ち合わせで何時間も待たされたり同級生の家に電話掛けてたら相手の親が出て気まずかったりすることもないのだろう。


でも令和になったところで技術革新は進んでいくのだから令和の終わりころにはまた同じように令和化石が必要になる。令和の時代はタクシーは人間が運転していたとか配達も人間が持ってきてたとかになるのかな。次の令和化石を作るためにも令和の時代を楽しんで生きよう。


コメント

  1. ツイッターなんかを見ているとブラウン管を見たことがない若い人が分厚いテレビのイラストに違和感を表明したりしてて、常識が少しずつ塗り変わっていく様が観察できて楽しい。
    亡くなる前に薩摩弁を覚えてもっとじいちゃんとお話すればよかったと思うよ。

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    1. 爺さんは横須賀住んでたのに標準語話せなかったんだ。

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