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6月, 2019の投稿を表示しています

日本の産業革命

『日本の産業革命――日清・日露戦争から考える (講談社学術文庫)』のなかで明治初期の通貨の話が面白かった。 江戸後期の日本は各藩ごとの藩札が飛び交い価格も変動が激しく下手すると紙くずになってしまう危険もある不安定なものだった。それを明治政府の成立のときに共通通貨を発行することになるのだが明治政府自体にもその通貨を保証するだけの資産が無かった。 当時の世界情勢はイギリスが工業中心から金融中心に移行する過渡期だった。ドイツが正式に金本位制を整えロンドン市場との関係を強めたのを皮切りに欧米各国が金本位制に移行していった。 日本は金が枯渇したこともあって銀本位制としてスタートする。これが新興工業国であった日本には好条件となった。先進国が軒並み金本位制を採用したことによって金の価格は上昇し、銀の価格は下落した。 つまり円安傾向が長期間続くことになる。これによって外国との価格競争に有利に働くだけでなく輸入品の価格を押し上げてしまうことで国内産業を守ることが出来た(その反面、金本位制を採用した国との貿易は不安定ではあった)。 当時の政府がキツい金策に追われた原因は外資の閉め出しにあった。外国資本を排除して自国で経済を回すことに固執するが故に常に資金が不足していた。鉄道を敷いたのも富岡製糸場を建設したのも外国人がやりたいと言ったから急いで用意したものであった。そこで明治政府は民間の大金持ちを頼った。外国からの借金を繰り返して植民地化することを極端に恐れたからだった。 しかしそれが功を奏して経営は軌道にのることになる。やっぱりプロの経営者のほうが商売はうまい。似たように銀本位制を採用して外国資本を排除しながら自国経済を発展させようとした清国は官営にこだわり経営はうまくいかなかった。ここらへんも紙一重の話だ。 初期明治政府を悩ましていたもう一つの問題が士族へ支払われる多額の秩禄だった。倒幕の中心となった士族から秩禄を奪う行為は自らのアイデンティティの否定となる矛盾したものではあるが政府支出の1/3を占めてしまう秩禄は大きな足枷になった。しかも1873年には徴兵制が開始され武士という身分自体がもはや時代にそぐわない矛盾したものとなってしまっていた。 この矛盾を解消するために西郷は征韓論を打ち立てるがそれも失敗に終わり下野することとなる。その直後6年分の秩禄...

精養軒

先日東京都美術館のクリムト展を観にいった帰りに併設するレストランでランチをいただいたのだが、そこが精養軒の系列だった。まあ良いお値段でにもかかわらず量は少なめ。精養軒もお高くとまってやがるなと思って一口食べてみたらこれが旨いこと美味いこと2つの漢字を使いたくなるくらい美味しかった。そこで気になって精養軒について調べたら面白かった。 精養軒は岩倉具視に仕えていた北村重威が西洋人をもてなすためにもちゃんとした西洋料理出せる宿泊施設作らなきゃやべーよって岩倉具視を説得して明治5年に築地精養軒ホテルを開業するのだけど、開業した日に有名な銀座の大火で全焼。明治8年に建て直してしばらく営業して上野に支店出したあたりで今度は関東大震災で全焼。晴れて支店だった上野が本店に格上げになった。 この店の特徴はとにかく上級国民の匂いがプンプンすることだ。谷崎潤一郎は経営者の御子息の家庭教師をやりながら書生をしてたり夏目漱石の小説にたびたび登場したり芥川龍之介の送別会をやったり森鴎外がドイツで捨てた彼女が泊まりに来たり高村光太郎と横光利一が結婚披露宴を開いたりしている。かつての海軍士官はみんな精養軒で食事をすることが義務付けられていてそれで海軍に洋食が定着し国民病だった脚気から海兵たちを救うことが出来たりしたそうだ。 日本でもかなり早くからやっている洋食屋なだけに逸話も多くハヤシライスの発祥地という説もある。当時のメニュー「hashed beef with rice」が鈍ってハヤシライスになったのだとか。それと面白いのがカレーに福神漬けを入れたのもこの精養軒からだそうだ。あと天皇の料理番の人とか有名なシェフを何人も排出したそうだがそこは割愛する。 精養軒とは話がズレるかもしれないけど明治の時代はどんなメニューを出していたのだろうか気になった。そもそもカレーにしたって文明開化以前の日本で手に入る材料なんか人参くらいではないのか。そこらへん当時の洋食屋さんは苦労してたみたいで日本にあるものを代用したり肉はとれたて鴨や猪など新鮮な ジビエを使用したりしていたらしい。寿司に蕎麦みたいな江戸料理を産む土壌からフレンチはなかなか難しかったのだろう。 明治の精養軒はどうやら宴会料理のお店だったらしい。元がホテルだしね。大正になってから本格的に洋食屋さんになる。大正...たいしょう......

天保水滸伝

前々回『サカナとヤクザ』の銚子の話を書いたがあのときは高寅のことにフォーカスを当てるために捨象していた浪曲で有名な『天保水滸伝』の話がある。『サカナとヤクザ』の著者鈴木智彦さんのブログを読んで改めて興味を持ったのだけどここらへんググるとかなり面白い。 ぼくも全部の話を知ってるわけではないが、基本的には銚子辺りを縄張りにしてるヤクザであり主人公の笹川繁蔵と敵役である飯岡助五郎とその一家の抗争の話なんだけど、その中で有名な演目が「笹川の花会」だ。 ➖ 笹川繁蔵が困窮する地元民救済のため銚子の旅館十一屋で花会(つまり賭博開帳)を開くというのだがライバル飯岡助五郎は面白くない。風邪を理由に仮病を使って跡目を譲る予定の"政"に義理(お金)5両を持たせ飯岡助五郎5両身内(組員)から3両ということで花会に向かう。 入口で義理(金)を下足番の若い衆に渡そうとすると笹川繁蔵がそれを引ったくってふところに仕舞ってしまう。政は金にがめつい繁蔵をみて心底がっかりする。 どうせ小規模な花会だろうと2階へ上がるとそこには関東中の親分オールスター状態だった。酒飲んで出来上がってるよくわからないDQNに親分助五郎の名代できたことを告げると遠路はるばる来た親分に対して這ってでもくるもんだろとブチ切れられる。なんだこのDQNと思ってたらそれが有名な"国定忠治"だと言う。 ビビる政に追い打ちをかけるように各親分からの義理(金)が貼り出されるとそれぞれみんな親分50両身内30両となっていた。    5両と3両で恥をかくことを覚悟していたら貼り出された紙には飯岡助五郎50両身内30両と記されていた。繁蔵が義理(金)を引ったくったのは横領するためではなく恥をかかせないためだったのだ。 貼り出された助五郎の義理(金)額をみたDQN国定忠治はすっかり機嫌を直してまた酒を呑み直す。政は涙ながらに繁蔵に恩返しを誓うのであった。 というのかだいたいのあらすじ。 笹川繁蔵は下総で醤油醸造する経営者の息子として産まれたボンボンだった。江戸に出てスモウレスラーになったが目が出ず博打にハマり地元に戻ると銚子でDQNチームを結成し持ち前の腕っ節でその版図を拡大させていった。まあつまりロクでもないやつだ。 対する飯岡助五郎は相模国公郷村(現在の横...

『ラーメンと愛国』2

『ラーメンと愛国』の話の続きだけど、ご当地ラーメンの話が面白かった。前回南京そばが支那そばになって中華そばになったところまでで終わったが、中華そばがラーメンになったのは日清のチキンラーメンの影響が大きいようだ。チキンラーメンのテレビCMでラーメンという呼称が一般的になったらしい。 この本ではこのことを詳しく書いてあるし、札幌ラーメンや博多ラーメンが別々のルートで入ってきた別の種類の麺料理が元であるとか興味深い話もあるこで興味持ったら買って読んでみても損はないはず。 個人的に興味を持ったのはご当地ラーメンの話である。いまや日本各地に存在するご当地ラーメンだが、このご当地ラーメンのほとんどがラーメン博物館の完成以後に出来上がったものであってもっというとここ10年くらいに"ご当地"ラーメンとしてラーメン博物館入りしたものが多い。 この本は、その理由を小泉政権の改革に求めている。それ以前の日本は田中角栄の日本列島改造論によって高度成長期を通して中央に集中していた金の流れを公共事業によって地方に流すことで田舎と都会の格差を埋めていた。それは田中角栄が闇将軍として君臨した後の政権にも踏襲されてきてしまい地方はいつのまにか公共事業に依存し公共事業のための公共事業という泥沼にハマっていった。当時の自民党にとっては利益誘導型の政治が選挙の票に結びつくから何かと都合が良かった。 しかし小泉政権になって新自由主義的な政治に変わる。効率の悪い公共事業は打ち切られることになった。これまで公共事業にどっぷり首までつかっていた地方自治体にとってみたら寝耳に水だったようだ。公共事業に依存しそれによって経済を回していた地方自治体が頼れるものは観光しかなかった。というより公共事業関連以外の産業が育ってはいなかったのだ。 だが皮肉にも地方の公共事業によって整備されてしまった地方の景色は似たり寄ったりのチェーン店が立ち並ぶ無個性のファスト風土でしかなかった。そこでご当地ラーメンという偽史を拵えることによってファスト風土に組み込まれたラーメン屋を観光資源にしたのであった。よくよく考えたらご当地ラーメンと言っても別に深く風土に根ざしているわけではない。富山は別に醤油や胡椒の産地でもないし熊本ラーメンは博多豚骨ラーメンにマー油入れただけだろうとかいろいろツッコミが出来てし...

『ラーメンと愛国』

『ラーメンと愛国』の「ラーメン」という名称成立以前の話が面白かった。元々は横浜や長崎みたいな華僑の居留地で中華料理とひとつとして「南京そば」の名前で売り出した。そのころは中国人の料理人を雇っていたり中国の料理という認識だった。 日本人のなかで一般的になるきっかけは明治43年(1910年)に浅草の来々軒に支那そばが出来てからだった。このころの浅草は第一次世界大戦の後の好景気から近隣の工業地帯に地方から人口が流入していて、浅草は期間工や日雇いなどの下層労働者の街だった。下層労働者にとってラードを溶いたスープは高カロリーな健康食だった(いまとは逆で当時の健康食とはカロリーが高いことであり、特に身体が資本の肉体労働者にとっては死活問題だ)。そんな肉体労働者が仕事終わりの贅沢に夜な夜な楽しみとして支那そばを啜るというのが初期のラーメンのイメージだった。 働いているひとも下層階級の人間だったみたいで若いころの江戸川乱歩も小説が売れないころ支那そばの屋台を引いたらしい。小津安二郎の映画に『一人息子』という作品があって、田舎から上京して東京の学校を卒業した息子に会いに来た母親が低賃金の職にしか就けず長屋で暮らす息子にがっかりする話なのだが、その息子が母親に振る舞った食事が支那そばであった。この時代において支那そばは貧困層を象徴する食べ物だったみたいだ。 「支那そば」から戦後「中華そば」と呼ばれることになる。理由は中華民国(台湾)からクレームがきたそうだ。ただ中華そばが一般的になるのはそれからかなり後で世間的には支那そばのほうが一般的だったそうだが公共の電波に乗せるのは中華そばに統一された。 戦後の闇市で中華そば屋に出来た行列を見て日清の創業者安藤百福は中華そばに関心を持つようになったらしい。戦後の闇市に中華そば屋は少なからず存在した。配給のメリケン粉を製麺所でうどんに製麺していたらしいがその余りをかき集めて中華麺にして闇市の中華そば屋に流していたらしい。なのでほかの食べ物よりは比較的安価で栄養価の高いもの(つまり高カロリー)が食べられるので人気があった。 橋田壽賀子ドラマの『渡る世間は鬼ばかり』では5人姉妹がそれぞれ異なる階層の家に嫁ぐ(らしい。ぼくは観たことないので)。次女の泉ピン子は高校中退し家出をして幸楽という中華料理屋で住込みの仕事...

サンディちゃんとウェンディーちゃん

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どうも、ご無沙汰しております、好きなドラクエのキャラクターは サンディ ちゃん、好きなハンバーガーチェーンのキャラクターは ウェンディー ちゃんの錆田鉄男です。 ドラクエ10の廃人で引きこもりの44歳が農水省元事務次官の父親に刺し殺された事件 を目にして、最初に思ったことは「ハマったのがドラクエ9だったらこんなことにならなかったかもしれないなあ」だった。 僕も10年前、引きこもりだった。2009年のことだ。 一人暮らしの引きこもりだったので最低限の衣食住をまかなうだけの外出はしたが髪も髭も伸び放題で、声を発する機会もコンビニやファストフードで買い物するときだけだった。 春に仕事をやめてからずっとゲームをしていた。やりこみゲーで有名な同人サークルの「 犬と猫 」のゲームをひたすらやっていた。『レミュオールの錬金術師』、『水色の塔』、『水色散歩道』、『海洋レストラン海猫亭』、『リミットレスビット』、『ハーヴェストグリーン』などなど。ゲームは通販やダウンロード販売で手に入れるので当然家から一歩も出る必要がなかった。 7月。ドラクエ9の発売が世間をにぎわせていたがニンテンドーDSを持っていなかったので、ネットでフリーゲームを渉猟したり、昔やった 鉄鋼団 の『Kinoko』『Kinoko2』『Kinoko3』を引っ張り出してきて遊んでいた。 9月。灰色の引きこもり人生にも少し楽しみな出来事があった。『 サガ2秘法伝説 』のリメイクが発売されたのだ。ゲームボーイ世代なら分かってもらえると思うが、サガ2は当時のゲーム少年のハートを虜にした名作RPGである。僕は三十歳のおじさんになっていたが久しぶりに少年のようなワクワク気分で、ニンテンドーDSi本体と『サガ2』のリメイク版のソフトが同梱されたセットを買った。 SaGa20周年記念モデルのかっこいいニンテンドーDSi 発売から1週間もせずにクリアし2週間もすればやり込み要素もだいたい遊び尽くしてしまった。投資額に見合う楽しさはあったものの、ずっと飽きずに遊べるものではなかった。そもそもストーリーは少年時代にすでに経験したもので、追加要素もそう多くは無かったからだ。 お祭りが終わった後の寂しい気分を味わい、心に穴が開いてしまった。 そこで目をつけたの...

康暦の政変

前にやっていたKindleの中世史フェアで買った『選書日本中世史 3 将軍権力の発見』に書かれている康暦の政変の話が面白かった。とはいえ大抵の人にとって康暦の政変どころかこの事件に登場する人物も誰一人としてわからないだろう。おそらく大河ドラマ出演回数ゼロであろう歴史上の人物がズラリと並ぶ。 ときは室町時代前半で南北朝時代の後半にあたる時代。主人公(?)となる細川頼之は中世史好きには有名な名執事である。べつにセバスチャン的なやつではない。足利2代目の将軍義詮亡き後、幼い3代目の義満を助け幕府のNo.2として幕府の基礎作りに貢献した人物であるのだが細かいことはウィキペディアを読んで欲しい。 康暦の政変というのはその偉大な人物であるはずの細川頼之がクーデターにより失脚してしまった大事件だ。細川氏と対立していた斯波高経・義将親子の陰謀や成長して細川頼之がウザくなってきた足利義満の権力的な自立などのいろんな話があるのだが、この本で面白いのは事件を宗教勢力との絡みで説明しているところだ。 というのも政権運営に成功していた頼之が大きく評判を落とすことになったのは彼が当時流行りの禅に傾倒するあまり既存の仏教勢力に反感を買って連日、京に神輿が踊る状態になってしまったからだ。 一見すると毎日祭りみたいで楽しそうだがこのころの神輿は不満を持った僧や神人が神輿の神威を笠に着て大暴れデモをする一大迷惑イベントであって都市の機能が完全に麻痺してしまう。相手が神仏だけに理屈も通じないし攻撃を加えることも出来ない。興福寺が神輿担ぐときなんかは氏寺としている藤原氏は公務を停止して神輿にお参りをしてストライキに参加しなくてはならず、スト破りをすると「放氏」といわれ藤原氏を名乗れなくなる。これは実質的な貴族としての死を意味していた。 頼之は南禅寺と対立した叡山が行う連日のデモによって完全に参ってしまい日和って叡山の主張を受け入れ南禅寺に不利な裁定を下してしまう。それによって今度はマブダチだったはずの南禅寺の住職春屋妙葩が臍を曲げて丹波に隠遁してしまう。そして同じく春屋妙葩のマブダチでもっと過激な禅信者だった斯波義将についてしまった。 その後、将軍義満の命によって南朝対策で結成された斯波や山名等の追討軍がなぜかそのまま反頼之軍となり将軍御所を取り囲み頼之を罷免を求めるクーデターを...