精養軒
先日東京都美術館のクリムト展を観にいった帰りに併設するレストランでランチをいただいたのだが、そこが精養軒の系列だった。まあ良いお値段でにもかかわらず量は少なめ。精養軒もお高くとまってやがるなと思って一口食べてみたらこれが旨いこと美味いこと2つの漢字を使いたくなるくらい美味しかった。そこで気になって精養軒について調べたら面白かった。
精養軒は岩倉具視に仕えていた北村重威が西洋人をもてなすためにもちゃんとした西洋料理出せる宿泊施設作らなきゃやべーよって岩倉具視を説得して明治5年に築地精養軒ホテルを開業するのだけど、開業した日に有名な銀座の大火で全焼。明治8年に建て直してしばらく営業して上野に支店出したあたりで今度は関東大震災で全焼。晴れて支店だった上野が本店に格上げになった。
この店の特徴はとにかく上級国民の匂いがプンプンすることだ。谷崎潤一郎は経営者の御子息の家庭教師をやりながら書生をしてたり夏目漱石の小説にたびたび登場したり芥川龍之介の送別会をやったり森鴎外がドイツで捨てた彼女が泊まりに来たり高村光太郎と横光利一が結婚披露宴を開いたりしている。かつての海軍士官はみんな精養軒で食事をすることが義務付けられていてそれで海軍に洋食が定着し国民病だった脚気から海兵たちを救うことが出来たりしたそうだ。
日本でもかなり早くからやっている洋食屋なだけに逸話も多くハヤシライスの発祥地という説もある。当時のメニュー「hashed beef with rice」が鈍ってハヤシライスになったのだとか。それと面白いのがカレーに福神漬けを入れたのもこの精養軒からだそうだ。あと天皇の料理番の人とか有名なシェフを何人も排出したそうだがそこは割愛する。
精養軒とは話がズレるかもしれないけど明治の時代はどんなメニューを出していたのだろうか気になった。そもそもカレーにしたって文明開化以前の日本で手に入る材料なんか人参くらいではないのか。そこらへん当時の洋食屋さんは苦労してたみたいで日本にあるものを代用したり肉はとれたて鴨や猪など新鮮なジビエを使用したりしていたらしい。寿司に蕎麦みたいな江戸料理を産む土壌からフレンチはなかなか難しかったのだろう。
明治の精養軒はどうやら宴会料理のお店だったらしい。元がホテルだしね。大正になってから本格的に洋食屋さんになる。大正...たいしょう...12年...あっ(察し
それは良いとして明治35年に精養軒の主人が家庭向けにレシピ本を書いている。それがいまでもネットで閲覧できるのだけどこれがまた美味そうで美味そうで。
でも明治35年にこのレシピをそのまま作れる人がご家庭にいたのだろうか。そんなことが出来る女中さん(当時主婦という存在はまだいなかったので)の給料は一体いくらだったのだろうか。上級国民しか相手にしていないレシピ本だろうからそのくらいはポンと出せたんだろうな。たぶん。
参考( http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849072?__lang=jp )
ちなみに現在株式会社精養軒の最大の大株主はかつての会長が作った福島育英会だ。次に比率が高い株主もほかの育英会だったりするので上級国民は精養軒で食事をすることによりノブレスオブリージュを果たしているのかもしれない。
流れがいい。美術館の帰りレストラン行ったらおいしかったので歴史を調べたら面白くてノブレスオブリージュって流れがいい。お高め洋食屋さんは日比谷公園の松本楼しか行ったことない。オムライスうまかった。
返信削除この歳にもなるとなかなか美味くてびっくりすることも少なくなるから新鮮だった。今度は1400円のカレーが食べたいです。
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