『ラーメンと愛国』
『ラーメンと愛国』の「ラーメン」という名称成立以前の話が面白かった。元々は横浜や長崎みたいな華僑の居留地で中華料理とひとつとして「南京そば」の名前で売り出した。そのころは中国人の料理人を雇っていたり中国の料理という認識だった。
日本人のなかで一般的になるきっかけは明治43年(1910年)に浅草の来々軒に支那そばが出来てからだった。このころの浅草は第一次世界大戦の後の好景気から近隣の工業地帯に地方から人口が流入していて、浅草は期間工や日雇いなどの下層労働者の街だった。下層労働者にとってラードを溶いたスープは高カロリーな健康食だった(いまとは逆で当時の健康食とはカロリーが高いことであり、特に身体が資本の肉体労働者にとっては死活問題だ)。そんな肉体労働者が仕事終わりの贅沢に夜な夜な楽しみとして支那そばを啜るというのが初期のラーメンのイメージだった。
働いているひとも下層階級の人間だったみたいで若いころの江戸川乱歩も小説が売れないころ支那そばの屋台を引いたらしい。小津安二郎の映画に『一人息子』という作品があって、田舎から上京して東京の学校を卒業した息子に会いに来た母親が低賃金の職にしか就けず長屋で暮らす息子にがっかりする話なのだが、その息子が母親に振る舞った食事が支那そばであった。この時代において支那そばは貧困層を象徴する食べ物だったみたいだ。
「支那そば」から戦後「中華そば」と呼ばれることになる。理由は中華民国(台湾)からクレームがきたそうだ。ただ中華そばが一般的になるのはそれからかなり後で世間的には支那そばのほうが一般的だったそうだが公共の電波に乗せるのは中華そばに統一された。
戦後の闇市で中華そば屋に出来た行列を見て日清の創業者安藤百福は中華そばに関心を持つようになったらしい。戦後の闇市に中華そば屋は少なからず存在した。配給のメリケン粉を製麺所でうどんに製麺していたらしいがその余りをかき集めて中華麺にして闇市の中華そば屋に流していたらしい。なのでほかの食べ物よりは比較的安価で栄養価の高いもの(つまり高カロリー)が食べられるので人気があった。
橋田壽賀子ドラマの『渡る世間は鬼ばかり』では5人姉妹がそれぞれ異なる階層の家に嫁ぐ(らしい。ぼくは観たことないので)。次女の泉ピン子は高校中退し家出をして幸楽という中華料理屋で住込みの仕事をする。そこで店主の息子である角野卓造と恋仲になり結婚することになる。しかし嫁ぎ先の姑である赤木春恵と嫁姑戦争が勃発してしまう。理由は古くなった店を建て替えることの是非だった。古い店舗のままでは客も来なくなると考える泉ピン子と亡き夫が中華そばの屋台を引いていたところからスタートして店を構えるまでになった苦労が染み込んでいる思い出の店舗の建て替えに赤木春恵が拒否反応を示したのだった。
この話には昭和の中華そば屋のイメージが濃縮されている。家出少女を住込みで働かせる社会のはぐれ者に対する受け皿として、闇市(おそらく)で屋台を出して裸一貫から戦後の混乱期を潜り抜けてきた中華そば屋があったのだ。
著者の清水健朗氏も言っているが、仮にこれが焼肉屋だったら民族性が出てしまうだろうが中華そばを出す店だからといって角野卓造を中国人設定とは誰も思わないだろう。このころにはもうすでに中華そばは中国文化の手から離れてむしろ日本のアンダーグラウンドの文化として定着していたのだった。
幸楽の三代目になるはずのえなりかずきは高い教育を受け家業を継ぐ道を拒否し公認会計士として自身の階層から脱却することに成功している。これがもし家業が醤油問屋とか下層階級のイメージがないものだったら彼も家業を継いだのかもしれない。しかし高い教育を受けたものに下層階級を連想させる家業を継ぐことは出来なかったのだ。
ぼくの同級生でもクラスは違うけどラーメン屋の息子がいたらしい。正確には噂レベルなのだ。その店は街で評判の良い店で誇れることだと思うのだが彼は最後までそのことを自身の口から語ることはなかった。コンビニの店長の息子も同級生でいたが彼はむしろ父親がコンビニを経営していることを誇らしく語っていた。子供であったぼくにはその2人のスタンスの違いが理解出来なかったが、ラーメン屋の店主はどこか後ろめたさや卑屈なところがあってそれが子供伝染してしまったのかもしれない。いまや割とヤンキー文化でそれなりに漢らしい仕事になったラーメン屋さんからは想像もつかない話だ。
そう言えば愛国者であらせられる石原慎太郎さんは「中華そばなんてまずそう、支那そばの方がうまそう」というようなことを仰っていましたね。
返信削除彼の少年時代なんかは支那そばのほうが一般的だった時代でしょう
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