康暦の政変


前にやっていたKindleの中世史フェアで買った『選書日本中世史 3 将軍権力の発見』に書かれている康暦の政変の話が面白かった。とはいえ大抵の人にとって康暦の政変どころかこの事件に登場する人物も誰一人としてわからないだろう。おそらく大河ドラマ出演回数ゼロであろう歴史上の人物がズラリと並ぶ。


ときは室町時代前半で南北朝時代の後半にあたる時代。主人公(?)となる細川頼之は中世史好きには有名な名執事である。べつにセバスチャン的なやつではない。足利2代目の将軍義詮亡き後、幼い3代目の義満を助け幕府のNo.2として幕府の基礎作りに貢献した人物であるのだが細かいことはウィキペディアを読んで欲しい。


康暦の政変というのはその偉大な人物であるはずの細川頼之がクーデターにより失脚してしまった大事件だ。細川氏と対立していた斯波高経・義将親子の陰謀や成長して細川頼之がウザくなってきた足利義満の権力的な自立などのいろんな話があるのだが、この本で面白いのは事件を宗教勢力との絡みで説明しているところだ。


というのも政権運営に成功していた頼之が大きく評判を落とすことになったのは彼が当時流行りの禅に傾倒するあまり既存の仏教勢力に反感を買って連日、京に神輿が踊る状態になってしまったからだ。


一見すると毎日祭りみたいで楽しそうだがこのころの神輿は不満を持った僧や神人が神輿の神威を笠に着て大暴れデモをする一大迷惑イベントであって都市の機能が完全に麻痺してしまう。相手が神仏だけに理屈も通じないし攻撃を加えることも出来ない。興福寺が神輿担ぐときなんかは氏寺としている藤原氏は公務を停止して神輿にお参りをしてストライキに参加しなくてはならず、スト破りをすると「放氏」といわれ藤原氏を名乗れなくなる。これは実質的な貴族としての死を意味していた。


頼之は南禅寺と対立した叡山が行う連日のデモによって完全に参ってしまい日和って叡山の主張を受け入れ南禅寺に不利な裁定を下してしまう。それによって今度はマブダチだったはずの南禅寺の住職春屋妙葩が臍を曲げて丹波に隠遁してしまう。そして同じく春屋妙葩のマブダチでもっと過激な禅信者だった斯波義将についてしまった。


その後、将軍義満の命によって南朝対策で結成された斯波や山名等の追討軍がなぜかそのまま反頼之軍となり将軍御所を取り囲み頼之を罷免を求めるクーデターを起こし頼之を追い出したあとの管領(室町幕府No.2)の座には義将が座ることになる。それと同時に臍を曲げていた春屋妙葩は京へと戻ってくる。


これがざっくりとした康暦の政変の内容なのだけど、ここらへんの時代の叡山は凄まじい権力を持っていた。北野天神社や祇園社などは叡山の末寺と化していたりとか金融屋の土倉は大抵が叡山系であった。


それに対して新興勢力として禅が出てきた。彼らは中国帰りだったり本物の中国人だったり、中国行ったことなくても中国語話せたりとかとにかく時代の最先端を行くインテリ国際人だった。


春屋妙葩みたいな禅宗と叡山との対立は野球球団買おうとしたころのホリエモンとナベツネの対立みたいなものだ。


この時代の禅が力を持った大きな理由は、当時の日本政府では独自の通貨を発行していなかったことだ。すでに貨幣経済が浸透していた日本において貨幣を供給することが出来るのは中国の通貨を貿易で獲得くることが出来るという意味で向こうとコネクションがあった禅宗しかなかった。いまでいう日銀みたいな存在になってしまった。


康暦の政変以後、叡山の神輿はピタッと収まってしまう。あってもシカトだったみたいだ。そのかわりに権力者は禅の高僧の意見を重要視するようになる。


足利義満といえば明の皇帝に使者を送って日本国国王を冊封されたことは有名だがこのときの国書や返礼などは中国通の禅僧にやって貰うことによって禅宗を外交官とした勘合貿易のシステムが完成する。


失意のまま領国へ下った頼之はいろいろあって政界に復帰を果たすことになる。管領には弟の頼元が就任して本人も京都に戻ってきた。その頼元の子孫は細川京兆家として室町幕府の中枢を担うことになる。


やっぱりいつの時代も金で権力が動くのであって金を作れた人たちが時代の中心になって行くのだ。そのことに気がついて禅宗と協力関係を築けた義満がどれほど儲かったかは金閣寺みればわかるよね。



コメント

  1. 高校生の時日本史の授業は寝てたから気の利いたコメントはできないよ。

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    1. ワイも元々世界史選択者やで

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