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8月, 2019の投稿を表示しています

もう行かなくなった場所

普段はあまり行かない道を散歩するとふと懐かしい瞬間がある。旧友が住んでいた家の前だったりかつて一度だけ入ったことがある店だったりなにかの思い出がある場所を見かけたとき昔の思い出がフラッシュバックしてくる。 普段行き来している道のほうがずっと思い出があるはずなのに不思議だ。もっと言えば自分の部屋の中で過ごす時間が最も長いのだから自分の部屋に戻った瞬間懐かしい思い出が蘇って来ても良いはずなのにそんなことは一度もない。風呂入ろうとか何食べようとかそんなことばかり考えている。 そんな部屋の中にいて懐かしくなることもある。この前部屋を片付けていたら大昔使っていたガラケーが見つかった。その瞬間それを使っていたころよくつるんでいた旧友や職場、行きつけだった飲み屋など一気にフラッシュバックしてきた。どうやら人は何か失わなったものと久しぶりに再開しないかぎり懐かしくなることはないみたいだ。 この懐かしさはあまり好きじゃない。寂しい気持ちになるからだ。この寂しさを感じるくらいなら全て忘れさってしまって、いつ買ったか分からない書けなくなってる100均のボールペンを見つけたときみたいに躊躇なくゴミ箱に放り込めればどんだけ楽だろうと思う。 でもそれもなぜか出来ない。また見つけたとき同じ寂しさに襲われると分かっていても引き出しの奥にしまってしまう。日本の携帯会社が銭ゲバだったせいで専用充電器買わないと充電出来ないからもう電源が入ることはおそらくないだろう。でもなぜか捨てられない。使っていた携帯を平気で捨てられる人が羨ましい。ぼくにはそれが出来なくて前にも書いた通り最初に買ったiPhoneなんか部屋に飾っているくらいだ。 あといつも考えているのはいつかこの部屋を懐かしいものになるときがくるということ。それはいつか分からないが確実にやってくる失う瞬間と久しぶりにいま住んでいる家の前を通る瞬間がやってくるはずだからだ。自分や身近な人の死を考える瞬間に近い。いつか来るはずだけどまだ来ていないもの。 先日実家に帰省したときに近所を散歩した。昔から散歩が好きだったから小学生のころから10年以上毎日散歩していた道だ。その懐かしくなかった道が懐かしいものとして現れてきた。そのとき思い出してみたら似たようなことを小学生のときに考えていた。この道がいつか懐かしいものとして感じる瞬間について...

非日常

日常に飽きたらビジネスホテルに泊まろう(寄稿:pha) https://card-media.infoseek.co.jp/articles/2019/08/26/01/ この記事を読んで旅行の本質みたいなことを考えてしまった。リンク先に飛ぶのがだるい人のために説明すると元カリスマニートのphaさんが時々そこらへんのビジネスホテルに泊まって非日常を味わうってだけの話だ。これの何がすごいかというと彼の行動が旅そのものだからだ。 旅行の楽しさは日頃のテリトリーから離れる禁忌を犯すところにあると思う。人間が本来生物が不快に感じるはずの苦味や辛味を快楽のために食すのと同じく他の動物なら不快感しかないはずの自分のなかでの地元感があるテリトリーから逸脱して1番弱い状態である睡眠に入らなければならないことを快楽にしてしまうところにあるのではないか。 本来ならば、その違和感が強ければ強いほど快楽が増してきて違う言葉、違う食べ物、違う気候などに感じる違和感を楽しむものではあるけど実は家を離れるだけでこの快楽がそこそこ味わえるものだったりする。 ぼくは数年前に自分の家の上の階の排水管が漏水して家が水浸しになったから数日ビジネスホテル暮らしをしていたことがある。そのときは最寄り駅から4駅離れたビジネスホテルに泊まって暇だからどうせ暇だろう鉄男くんを呼び出して、ふだんなら2人ともテレビなんかみたいのにダラダラテレビ観ながらウイスキー飲んでグダグダ話してたのが妙に楽しかった。 友達の家に泊まるときとか親戚の家に泊まるときとかにも近いかもしれない。余談だけどぼくは夜更かしだから親戚の家に泊まってみんなが酔い潰れて寝静まったあとにこっそりリビングに戻ってきてテレビを観るのが好きだ。深夜のバラエティ番組なんか普段観ないのになぜかこのときばかりはすごく面白かったりする。 phaさんは近所で良いって言ってたけどやっぱり歩いて帰るのにはだるい距離まで離れたほうが良い。テリトリーの外に出たほうが非日常感は増す。逆に言えば南極でも家から100m先でも非日常感という意味では同じだ。でもやっぱり距離に比例して非日常感の倍率は出るものだ。せめて夜になって今さら帰ろうと思っても帰れないよなってくらいの距離はあったほうが良い。 phaさんもチェックイン後に...

ガラパゴス

夏風邪が長引いていてもはや他の病気なんじゃないかって怖くなってきました。それでも治りかけてだいぶ楽になってきたんでブログでも書きます。 世間では煽り運転が問題になってますが車を運転しないぼくには煽り運転をしたこともされたこともないし、どういうシチュエーションで煽り運転が発生するのかすらわかりません。 でもちょっとした思い出があって小学生のころ身体が不自由だった祖父を病院に連れて行くためにぼくと母親と祖父でタクシーに乗ったときのことです。 詳しくは覚えてないんだけど前に祖父が入院していた、かかりつけの病院が離れたところにあってそこまで高速を走っていました。そのとき前を走るDQNカーが急に蛇行しはじめたと思ったらそのまま1kmくらい走ったあと例のガラケー中年カップルみたいに車線を横切る形で停車しました。タクシーの運転手さんもいくらDQNだからといって轢き殺すわけにいかずにブレーキを踏むとDQN車から特攻の拓みたいなDQNが降りていました(いまでは絶滅した太古の生物がまだ日本に生息していた時代です)。 DQNは屠殺される牛みたいな奇声を発しながらタクシーの前までくると何やら日本語とも思えない啼き声でタクシーの扉を蹴り出しました。商売道具に傷をつけられた運転手さんは堪らなくなってドアを開けると今度は運転手さんに向かって蹴りを何発かお見舞いしたのです。 満足したのか喜びの雄叫びを上げたあとDQNはそのままDQNカーに戻って車を発進させてどこかへ行ってしまいましたが、ドライブレコーダーの無かった時代、不幸にもタクシーの運転手さんは愛車の傷と身体についたDQNの足跡について泣き寝入りするしかなかったことでしょう。 煽り運転はクラクションを鳴らすことがきっかけになることが多いらしいです。それを逆恨みして煽り運転に発展するのだとか。ぼくも一応ペーパードライバーですが免許は免許は持っていて仮免取ったあと路上で走っていたとき何度かクラクション鳴らされたことならあります。それはおそらくぼくの運転技術の拙さで相手をイラつかせてしまったのでしょう。怒りよりもむしろ申し訳ない気持ちでした。 しかしこれは想像なのですが、街や電車の中などで仲間内でワイワイやってるときに周りの人から不機嫌な態度を取られて賑やかな空間に水を差されて空気が壊れてしまったとき、たしかに向こうの言...

1万円

横浜美術館で開催されている「原三溪の美術 伝説の大コレクション展」で原三溪が井上馨から掛軸<孔雀明王像(※1)>を1万円で買ったらしいって話が面白かった。 原三溪が誰かわからない人にざっくり説明すると明治初期に横浜で活躍した大金持ちで美術に傾倒して画家のパトロンになったり茶器を集めて金持ち仲間と茶会を開いたりした人だ。 そんな大金持ちが掛軸ひとつに1万円も払ったってやたら強調されているのだけど、その時代(1903年)の価値と現代では違うことはわかるが、いまや1万円なんてお年玉貰ったばかりの小学生でも持ってる金額だしあまりピンとこない。まだ江戸時代のお大尽様が吉原貸し切って千両ばら撒くってほうが現代だ使われてない通貨なだけになんとなく凄いんだろうなってのは伝わってくる。 前にも参考にした『日本の産業革命 ー日清・日露戦争から考える』に1898年の資料で総所得が7万円円以上の金持ちが日本に26名いたという話が出てくる。ということは現代の日本で所得上位30くらいの年収の1/7だと考えれば想像出来る。それもデータがあるわけじゃないから分からないけど、だいたい100億くらいかな?そう考えると14億だからバスキアの絵を123億で買ったゾゾタウンの前澤さんのほうが凄そうだけど現代のアート市場が投資や節税の意味もあることを考えれば純粋に個人的な楽しみだけにそれだけの金額を払えるのは凄いことかもしれない。 ちなみにその26名の中に原三溪の義理の祖父である原善三郎の名前がある。彼は1827年(文政10年)に武蔵国渡瀬村の裕福な家に生まれ1862年(文久2年)に横浜に出て生糸問屋になった。つまり幕末から明治初期に横浜あたりで出現した生糸貿易長者なのだ。 時代は日米通商条約が1858年(安政5年)に締結されて日本が鎖国を放棄し港を開放した時代だ。本格的に横浜、長崎、箱館が開港された1859年当初こそ長崎が貿易の中心だったが翌1860年には横浜が最大の貿易量となった。善三郎が横浜に出た1862年は横浜に夢が溢れていた時代だった。明治に入ると為替会社を立ち上げ、生まれ故郷の渡瀬村や上州に製糸工場を建設し莫大な財を築いていくのであった。現代で言えばネット初期にIT企業立ち上げてIT長者になった感じだ。国際的で成金で溢れる当時の横浜はいまの六本木ヒルズみたいな雰囲気だったのだろ...

短時間睡眠

お久しぶりです。かれこれ1ヶ月間ブログを休んでいましたがそれもプライベートが多忙であったからです。それもひと区切りがついたのでブログの夏休みを終えて今日から復帰したいと思います。 この休止期間に変わったことと言えば、忙しい生活のせいかショートスリーパーになっていました。いわゆる短時間睡眠ですね。一般的な人が1日6〜8時間寝ているところを4時間以下の睡眠で大丈夫という感じ。それじゃ1日中眠いでしょうと思うかもしれないけど意外と眠くならないものなのです。日中軽くお昼寝をするのですがそれも30分くらいかな。ちなみにぼくがどのくらいのショートだったかというと5時頃に寝て8時頃に出かけるみたいな感じでした。 有名な話でナポレオンもショートスリーパーだったり、みんな一度は憧れたことがあるのではないかなと思います。 ちょうどYouTuberのラファエルさんがサブチャンネルでショートスリーパーの話をしていて、なんでも世の中の社長さんと成功者には多いそうで彼自身もかなりのショートスリーパーらしいです。 睡眠時間を半分にすれば1年で1ヶ月分多く起きていたことになり、その分仕事するのだから結果が出ないわけがないと。みんな出来ないと思ってやらないだけでやってみたら出来るもんだし実際やったら今以上にやりたいことを出来るし世界が広がると仰ってました。 確かに仰る通り起きてる時間が単純に増えるのだからやりたいことでも、やりたくないことでもやれることは広がります。でもそこにはメリット、デメリットがあって個人的に感じたことを書いていこうかと思います。 ○メリット  1、単純に起きている時間が増える これはそのままの意味です。起きている時間が増えて人生の中の覚醒してる時間が増えるのだからより多く生きていることになります。 2、昼型の人とも夜型の人とも仲良く出来る 友人で昼型の人も夜型の人もいると思います。でも逆側の人にメールを送ったりするときは今相手は寝ているかもとか思うと遠慮してしまいますよね。遠慮がいらない同じ時間帯に起きている人と自ずと仲良くなるものです。しかしショートスリーパーなら両者と仲良くすることが出来ます。ぼくも深夜4時過ぎに来たメールを即レスして驚かれたりしましたが昼でも夜でも別の人たちからメールが来るって意外に寂しくなくて良いもので...