1万円

横浜美術館で開催されている「原三溪の美術 伝説の大コレクション展」で原三溪が井上馨から掛軸<孔雀明王像(※1)>を1万円で買ったらしいって話が面白かった。


原三溪が誰かわからない人にざっくり説明すると明治初期に横浜で活躍した大金持ちで美術に傾倒して画家のパトロンになったり茶器を集めて金持ち仲間と茶会を開いたりした人だ。


そんな大金持ちが掛軸ひとつに1万円も払ったってやたら強調されているのだけど、その時代(1903年)の価値と現代では違うことはわかるが、いまや1万円なんてお年玉貰ったばかりの小学生でも持ってる金額だしあまりピンとこない。まだ江戸時代のお大尽様が吉原貸し切って千両ばら撒くってほうが現代だ使われてない通貨なだけになんとなく凄いんだろうなってのは伝わってくる。


前にも参考にした『日本の産業革命 ー日清・日露戦争から考える』に1898年の資料で総所得が7万円円以上の金持ちが日本に26名いたという話が出てくる。ということは現代の日本で所得上位30くらいの年収の1/7だと考えれば想像出来る。それもデータがあるわけじゃないから分からないけど、だいたい100億くらいかな?そう考えると14億だからバスキアの絵を123億で買ったゾゾタウンの前澤さんのほうが凄そうだけど現代のアート市場が投資や節税の意味もあることを考えれば純粋に個人的な楽しみだけにそれだけの金額を払えるのは凄いことかもしれない。


ちなみにその26名の中に原三溪の義理の祖父である原善三郎の名前がある。彼は1827年(文政10年)に武蔵国渡瀬村の裕福な家に生まれ1862年(文久2年)に横浜に出て生糸問屋になった。つまり幕末から明治初期に横浜あたりで出現した生糸貿易長者なのだ。


時代は日米通商条約が1858年(安政5年)に締結されて日本が鎖国を放棄し港を開放した時代だ。本格的に横浜、長崎、箱館が開港された1859年当初こそ長崎が貿易の中心だったが翌1860年には横浜が最大の貿易量となった。善三郎が横浜に出た1862年は横浜に夢が溢れていた時代だった。明治に入ると為替会社を立ち上げ、生まれ故郷の渡瀬村や上州に製糸工場を建設し莫大な財を築いていくのであった。現代で言えばネット初期にIT企業立ち上げてIT長者になった感じだ。国際的で成金で溢れる当時の横浜はいまの六本木ヒルズみたいな雰囲気だったのだろう。


彼は1874(明治7年)第二国立銀行を立ち上げる。前にも書いた通り、この時代は国立銀行という名の民間企業に銀行券を発行させて流通させていた。理由は単純に明治政府に金がなかったから政府紙幣に加えて民間企業に銀行券を発行させていたのである。次の1万円札渋沢栄一が第一国立銀行(1873年)だからその2番手が生糸成金ってなかなか凄い話だ。フェイスブックが仮想通貨を発行する話が話題だが横浜の生糸業者は100年以上前に仮想じゃない通貨を発行していたのだ。


この後世界は大恐慌に陥ると同時に1881年に財政緊縮論者松方正義が大蔵卿に就任する。ここから日本は所謂松方デフレという絶望的な大不況に陥ることになるのだがここではそれを詳しくは書かない。


この結果日本銀行がちゃんとした中央銀行となったことは良かったのだが、小さい規模の自作農は小作農に転落し奴隷になり中流だった家もどんどん潰れて都会のフリーターになっていった。シールズみたいなやつらがデモを趣味にしはじめて、宵越しの金を持たなかったはずの江戸っ子は貯金が趣味になってしまった。1897年に日清戦争の勝利後に敗者からカツアゲした金が手に入り金本位制が成立するまで続くことになる。


原三溪こと原富太郎は1868年(慶応4年)に美濃国厚見郡佐波村に生まれた(余談だが漱石とタメ)。裕福な家だったみたいで子供のころから儒学や美術などを学び東京専門学校(現在の早稲田大学)に進学し跡見女学校の教師を勤めたあと1892年に生徒であった原善三郎の孫娘、原屋寿と結婚。ものすごい逆玉の輿である。そのまま原家に入り原家の商売を手伝っているうちに本人も優秀な経営者となって大富豪と化す。


原三溪って言っても分からない人に富岡製糸場の経営者だって話をするとだいたいあーみたいなリアクションをされる。松方デフレの影響のひとつに官営工場の払い下げによって大金持ちが超絶金持ちへと進化したということがある。富岡製糸場は三井に払い下げられた後1902年に彼の経営する原合弁会社に譲渡される。つまり1万円払う前年である。晴れて彼も大金持ち超絶金持ちへと進化したのだ。子供の頃から絵を描いて美術に親しんでいた富太郎くんに大金を渡してしまえばどうなるかは容易に想像出来る。


生徒に手を出すセクハラロリコン教師が約10年後には掛軸ひとつにポンと普通のひとが一生遊んで暮らせるようなお金を払うようになってしまうのである。お金って恐ろしい。


現在の社会状況って明治の初期と酷似していて新興産業の隆興とデフレがセットで普通くらいの層が消滅してエグい金持ちとエグい貧乏人に分かれた時代だった。




(※1) 孔雀明王像 http://www.emuseum.jp/detail/100158/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=1&title=&c_e=&region=&era=&century=&cptype=&owner=&pos=9&num=8



コメント

  1. 現代の小作農、Uber eatserの錆田です。最近は日照りが続き稼ぎがありません。iPadの壁紙は「どうだ明るくなつたろう」と言って百圓札に火をつける戦争成金の絵です。

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    1. 小作農というより日雇いに近いかもね。人力車夫とかウーバーイーツっぽいじゃん。あれもそのころ流行ったらしい。

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